2005年08月11日

久留米絣人形


200508113539e227.jpg※6 出会い
 一方、母(敏子)は、両親が教育熱心な教師だったこともあり、県立女学校を卒業している。
 でもその時代、内地には良い就職先がなく、やはり父と同じく、新天地、満州新京の菊屋デパートを就職先に選んだのである。

 その後、父と母は同郷ということで、見合いし、結婚、奉天に居を構える。そして、私たち3姉妹が誕生したわけである。
 その間、大東亜戦争勃発、父は兵隊として召集され、連日お国のために、死を覚悟して訓練に励むも、戦地に赴くことがないまま終戦。

 私たち家族が博多港に帰還したのは、昭和21年夏。正に、着の身着のまま、命からがらの引き揚げであった。
 長姉(京子)5歳、次姉(妙子)2歳、私(真理子)が生後6ヵ月の時である。
 それから3年間、博多郊外の東筑紫野町にある母の実家の2階で、親子5人が居候の身になった。

 父は、当時、まるで抜け殻状態だった。自分の人生は、終戦とともに終わったと思ったそうだ。
 
 校長まで昇進した祖父は既になく、祖母は、夫が校長になった時点で退職を余儀なくされ、その時、既に年金生活を送っていた。
 祖母は婿養子をとって家を継いでいたので、家族は祖母の母親と母の弟2人(母は5人兄弟の長女、長男の弟は教師で既に所帯を持っていたし、、二女の妹も既に結婚していた)の4人暮らし。地元では旧家だった祖母の家は、資産もあり、家屋は3階建でL字型の大きなものだった。そんな恵まれた環境ということもあり、祖母は私たち家族を温かく迎えてくれた。そして全面的に応援してくれたのである。※7へ

(写真は、土産品店で購入したもの)
(上記小説は、カテゴリー、小説[藪椿]で連載中)
posted by hidamari at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 [藪椿] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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