2005年10月11日

パンダの縫いぐるみ人形


20051011183abc49.jpg※36 初恋
慎ちゃんとじっくり話をするのは、ほんとうに久しぶりだった。夏休み以来、私は運動会や文化祭で学校の帰りが遅く、殆んど砂山には行ってなかった。
 慎ちゃんも農繁期で忙しく、夕方、犬の散歩もままならぬようだった。ただ、部屋の窓からは彼が今日はどこで働いているか、目で確認出来たので、その姿を見届けるだけで私は満足だった。

 「ここんちは明るかねえ、アットホームで、俺、こんな感じ初めて」
 「慎ちゃんのとこだって、今松子さんや子供もいるし、賑やかでしょ」
 「ううん、第一、部屋がだだっ広くて、電気も暗いし、みんなあまりしゃべらんよ」
 「ここは笑ってばかりだもん」
 「そうかー」
 「でも、俺、食事だけは感謝してると、ここみたいにご馳走じゃないけど腹一杯食えるから、施設にいた時何が1番辛かったって、いつも腹が減っとったこと」
 「うん」」
 慎ちゃんは膝を立てて座り直し、膝を抱え込み顔を膝につけて、私の顔を覗うようにじっと見つめた。私は吸い込まれるような瞳に思わず目をそむけた。
 慎ちゃんはあわてて視線を前に移し
「俺ね、1度だけ万引きしたことがあるとよ」
 私は一瞬、目を見開いた。万引きということばに馴染みがなかったのだ。びっくりして、思わず京子の方を見た。京子は聞き耳をたてているようにも、そうでないようにも見えるが、振り返ることもせず、何を言うでもなかった。
「パン屋さんの前でいい匂いがしとったと、つい釣られて忍びこんだとよ。…いつもお腹すいとったからね。それで後先考えんでとっさに盗んどったと」
「…それで」
「すぐ、つかまったよ。…シスターが呼び出されて、…お店の人がシスターをこっぴどく叱ったんだ」
「…」
「シスターに申し訳ないと思うたと、ずっと優しくしてもらっていた人だっから」
「そおぅ」
「それでその時、2度と盗みはするまいと思ったんだ。その時、捕まっていなかったら、俺、今頃どうなってたか…」
 
 私は、中学校で、彼が冷たい廊下を裸足で歩いていた時のことを思い出していた。
 あの時、私は、放置された古い上履き、履けばいいじゃん、誰も責めたりしないのに、と思ったが、彼にとっては、とうていそんな軽い考えは出来なかったのだ、と今初めて分かった気がしたのだ。
 慎ちゃんは、施設の思い出を、次から次へ話した。
 京子も後片付けを終えると、私の横に座り一緒になって、彼の話に耳を傾けた。
 
 時計が9時を打った。
 
 いつまでも帰ろうとしない慎ちゃんに、既に風呂も終わった母はしびれを切らしていた。
「慎ちゃん、そろそろ帰ったら、おばあさんも心配されとるよ」
「ああー、ハイ、でもおばあさんはとっくに寝てます。それにこちらに手伝いに来てるのは分かってるし、1度寝たら何があっても起きないから、俺のことなんか心配はしてないです、大丈夫です」と、彼は素直に答えた。その時の母の気持を察することが出来なかったのだ。
 母は私に明らかに厳しい目で合図した。私は、分かったと、いうふうに上目使いに頷いた。
 そして、慎ちゃんを優しく見つめ「ねぇ慎ちゃん、そろそろ私も眠いし」とそれとなく促した。
 私の顔を覗った彼は事態を察したのか「俺そろそろ帰るけん」と、名残惜しそうにやっと腰をあげたのだった。
 母に言われるまでもなく、なかなか帰ると言ってくれない慎ちゃんを、どうして帰ってもらうか、考えていた所だった。もうちょっと早く、思い切って帰ってもらっていれば、母をヤキモキさせることもなかったのにと、楽しかった1日の最後に、私はちょっとブルーになっていた。※37へ

(写真は、上海の空港売店でチョコレートを買っておまけにもらったぬいぐるみ人形)
(上記小説は、カテゴリー小説[藪椿]で連載中)
posted by hidamari at 07:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 [藪椿] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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