2005年10月17日

収穫の秋


20051017e413c847.jpg39 藪椿
 「俺、昨日、高校受験で、戸籍抄本がいるっていうから、役場に取りに行ったと」
 「うん」
 「そしたらねえ、信じられんことがあったとよ」
 慎ちゃんは高揚した気分を抑えきれない様に、両手のこぶしをぶつけながら言った。
 「係の人が、俺の戸籍がない!って言うとよ。俺、頭が真っ白になったと。そんなことあり得んやろ!現に16年間こうして生活しとるとよ。おばあさんが秀夫さんの弟として養子にする、って確かに言うたとに」
 唐突ともいえる話の内容に、私の頭の中も一瞬パニックになった。この日本の現代にそういうことがあるのだろうか?慎ちゃんの場合、確かに特殊なケースである。おばあさんが手続きを怠ったのだろうか?彼の不幸な生い立ちが頭の中を駆け巡った。

 私は「それでどうなったの?」と、努めて冷静を装った。
「守山さんが役場におられると、真理ちゃん知っとる?…守山さんて偉かとよ、課長さんだって。守山さんが籍を作っておばあさんの養子にする手続きをすぐしてくれるって」
「そう言ってくれたと?」
 慎ちゃんは頷いた。
「…よかったね」と言いながら、慎ちゃんのお母さんの夫である守山さんが、どんな気持で手続きをするのだろうかとか、どうせするなら、なぜもっと早くしなかったのだろうとか、考えていた。

「でもねぇー、真理ちゃん、俺、今まで何者だったと?この世に存在していなかったとよぉ」と、無念を噛みしめるように言った。
 何か言って慰めなければ、と思えば思うほど、言葉が見つからない。
 沈黙の時間が流れた。
「…慎ちゃん、私は慎ちゃんのこと認めているからね」と、沈黙を破りフッと出た言葉だった。すると、慎ちゃんの悲しそうな目がみるみるうちに潤んできて、やがて水滴になりボロボロと頬にこぼれ落ちたのだ。彼はその涙を手の甲で何回も拭った。
 そして「俺ね、その時、真理ちゃんのことばかり考えたんだ」と、ポツリと言った。
 「エッ何で?」
 「…ちょっとは明るいこと、考えたかったと。そうでないと全身に力が入らなかったと。真理ちゃんのこと考えると、いつも元気が出るけん」と搾り出すように言った。

 ―そんな、…重いよ― と、とっさに思ったが、口に出すことは出来なかった。これ以上傷つけることは、さすがにかわいそうだった。

 足を抱えてうつむく彼の背に、冷たい風が容赦なく吹きつける。タローがいつものように、いつの間にか私たちの間でうずくまっていた。
 
 「寒いね、そろそろ、帰ろう」私はとっくりセーターの上に羽織った綿入り半天の衿を重ね合わせながら立ち上がった。慎ちゃんは、我に返ったように笑みを取り戻して、「これ」と言って、さっき原っぱに座る時に、脇に置いていた椿の花を私に手渡した。今しがたの椿の1件が、夢の中のことのようにぼんやり思い出された。※40へ

(写真は、近所の田んぼの風景。稲穂に鳥が来ないように網をかけてある)
(上記小説は、カテゴリー小説[藪椿]で連載中)
posted by hidamari at 11:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 [藪椿] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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