2006年06月21日

小説〔茜雲〕

※71
 考えてみると、晴美はバス停からこの海辺まで、どういう風にして辿り着いたか覚えていない。目の前に広がっている、吸い込まれるように深いエメラルドグリーンの海も、全く目に入っていなかった。
 ただ、もう1度東元と一緒にこの海に来たいと、夢のように想像していたことが、こうして現実になっていることが、信じられないでいる。
 ブローチを手にしたまま、沈黙の時間が流れた。
 晴美はふっと、―私も、記念になる物を、何か東元さんにあげたい―という思いにかられた。

 今まで、クリスマスや彼の誕生日に、プレゼントしたい、と思わなかったわけではない。しかし、それをしたら返って東元に迷惑をかけることだった。
 でも今、ブローチのお返しをしてもいいのではと思ったのだ。とはいえ、この場ではもう遅すぎる。手許にプレゼントに出来るものなどあるはずがなかった。

「俺みたいな男じゃなくて、今度は真面目な良い男を見つけるんだよ」と、啓介がポツリと言った。
 啓介のことばに晴美は、今まで平静を装っていた感情が一気にはじけていくのを感じていた。
 後から後から涙が頬を濡らした。
―この先、東元さんみたいな男性が現れたら、絶対逃しませんから―と心の中で呟いた。

「それに俺、X線被ってるしね」と、啓介は自分に言い聞かせるように呟いた。そして「そろそろ、帰ろうか」と、すっと立ち上がった。
 晴美は「ええ」と、あわててブローチをしまい、涙をそっと拭いた。
 そして、泣いてるどころではないと思った。
 何気に言った啓介のことばがひっかかったのだ。
 「…ホントですか?X線被っているって?」と、啓介におそるおそる尋ねた。
「えっ、うん、普通の人と比べたら、うんとね。俺、面倒くさくて、時々防具も付けないんだ」
「そんなあ、絶対気を付けて下さいね」
「有難う、……ま、大丈夫だから」啓介は、先になり岩を渡りながら帰り始めた。
 大丈夫と啓介が言っている以上、心配しても仕方のないことだった。

 晴美はいよいよこれでお別れなんだ、と改めて思い、啓介の後をトボトボとついていった。
 夕陽が水面に映し出され、ゆらゆら揺れていた。
 歩きながら、ふっと啓介にふられた忘年会の夜のことを思い出していた。
 そういえば、あの時、失意を癒すため、旅館の売店で、蛙の鈴が付いたストラップを買ったっけ。あのストラップ…。
 晴美は、はっとして、ハンドバッグの中を探した。袋に入ったまま、そのストラップが出てきたのである。※72へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)

posted by hidamari at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔茜雲〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック