56
時計は既に12時45分を指している。
茂はコーヒーを満足気に飲んでいる。
香ばしい匂いはみどりの胃袋を刺激はするものの、いっこうに美味しいとは感じられない。もともと、みどりはコーヒーの味が分かる人ではないのだ。
「どう?」茂がおそるおそる尋ねた。
「美味しい」みどりは作り笑いをした。
しかし、みどりがあまり美味しいと思っていないのはバレバレだった。茂は諦めた様子でそれ以上何も言わなかった。
みどりは、美味しいと思えないのを、本当に申訳ないと思った。
ただ、今日はどんなに美味しいものを出されても味は分からないだろう。
「…それでね、ちょっとお願いがあるんだ」茂は腕時計をちらっと見ながら言った。
「保坂さんともう1回だけ、松江の海に行きたいんだ。時間取ってくれないかな」
みどりは、一瞬目を丸くした。
本気?とでも言うように
「それはまずいよ」と即座に応えた。
「…そんな時間ないし」と、ポツリと今度は自分自身に言い聞かせた。
頭の中は、いろんなことを想定して目まぐるしく回転していた。
断ったら終わりだ、結論は急がなくても、という考えもあった。
しかし、どう考えても出来ない相談だった。
2人の気持ちがお互い分かり合ったからには、これ以上親しく出来るはずがなかった。
「何も深い意味があるわけじゃないんだ。お別れに思い出づくりにどうぉ?…また出張ってこと出来ないかな?……休日でもいいし、子供連れでもいいよ」
― 子供連れ ―その言葉にはっとさせられる。
そこまで譲歩して誘ってくれる茂の熱い眼差しに、みどりの心は揺れ動いた。57へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)
2006年10月21日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック