2006年11月06日

小説・喫茶店

64
 明日はもう事務所へは来ないのだと思うと、茂は、どうしても、もう1度だけみどりに会っておきたいと思う気持ちを抑えることが出来なかった。
 送別会の夜、茂は密かに、この後コーヒーを飲みに行こう、とみどりを誘っていた。しかし、みどりは、子供が待っているからごめんなさい、と言って、そそくさと帰ってしまったのだ。
 あれからずっと会話らしい会話も交わせず、ついに今日まで来てしまった。このまま、別れてしまうのは、茂にとって忍びがたかった。遙との場合はそのことをホッとしているのに、みどりとの場合はどうしても諦めることが出来ない。何をどうしたい、という訳ではないが、ただ会いたかったのだ。
 茂はその日せっぱ詰まっていた。女々しいと思いながらも、みどりにもう1度だけアタックすることを惜しむまい、と心に決めていた。
「明日、飛行機で発ちます。最後に今日ちょっとだけでいいです。コーヒー付き合ってもらえませんか」妙に、いんぎんな口調で、しかも有無を言わせないような迫力で迫っていた。
 ちょうど回りには誰もいない、コピー室を狙った。
「あら、そうだったですねえ。明日は飛行場までは見送りに行けないし…、波止場だったら行けるのに…」と言って、みどりは、頭を少し傾げて空ろな目をした。これはみどりがいつも困った時にする癖だった。その後どんな返事が返ってくるか、茂はいつもドキドキして待ったものだ。
 今日もまた茂は、みどりの返事を、息を殺して待っていた。ほんの1分くらいが長い長いトンネルの中のように感じられる。
「いいよ」
 みどりから発せられた天の声を聞いて、茂は、やっと止めていた息をふーっと大きく吐き出した。
「お昼休みにマロニエで待っていて!」と言うと、みどりは少女のように首をすぼめてニコッと笑った。みどりは一度決断すると、ふっ切れたようにカラッと明るくなる。これもいつもの彼女の癖だった。
 そして、コピーした書類を胸に抱いて、みどりは、何もなかったようにコピー室を出ていった。65へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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