2007年11月05日

小説・優しい背中

12
 絵里子は、柴谷が好きだという気持ちに、夫の存在を意識することはなかった。また、高校生の娘がいることも。家族に対する愛と柴谷に対する愛は、全く違っていた。だから、なんら不都合は感じなかった。とにかく、柴谷に対しては夢見る夢子さん状態だった。
 とはいっても、仕事が済めば真っ直ぐに自宅へ帰って、家事をこなしていた。夫とも娘とも何ら変わりなくいい関係だった。決して家庭を忘れているわけではなかった。  ただ、柴谷を好きだ、という気持ちに蓋をしようとは、どういうわけか、これっぽっちも思わなかった。その気持は、ふつふつと湧き出る泉のように止めることが出来なかったのである。
 プールサイドで会って以来、絵里子は、柴谷に対する熱い思いを持て余していた。もちろん、誰にも気づかれないよう気を付けていた。当の柴谷さえも気づいてはいないかもしれいことだった。
 仕事で柴谷と会話をすることは少なくない。そんな時、柴谷は全く自然体だった。内容は厳しいものでも穏やかな言い口が、絵里子には信頼がおけた。しかし、それは社員全てに対して皆同じ接し方だった。
 ところが、出勤時だけは違っていた。斜光を背につかつかと現れる柴谷は、絵里子の机の前を通り抜ける時、つかの間、絵里子の熱視線に応えるかのように、絵里子の目を凝視する。そして「おはよう」と言うのだ。
「おはようございます」絵里子は見つめられたまま柴谷より一瞬早くそう言うと、柴谷の目を確認してにっこり笑う。
 絵里子はそれだけで身体が芯から熱くなる。そして、その日1日幸せに過ごせるのであった。
 毎日の、朝の儀式のようなものだった。
 誰にも気づかれていないはずだった。絵里子には、もともと他人の思惑など気にする余裕はなかった。絵里子の夢見るような姿は、もしかしたら、見る人が見たらバレバレだったのかもしれない。
 何となれば、絵里子のこの異変を、隣の席に座っている平林啓太は、いつのころからか何となく感じ始めていたのである。13へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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