2007年11月11日

小説・優しい背中

15
 「お帰りなさい。今からお仕事ですか?」
 絵里子は、努めて平静を装ったつもりだが、身体全体が喜びを表していた。
 「いや、資料を置いて、決済文書に目を通したらすぐ帰る」と、言う柴谷の言葉は耳に入らなかった。
 絵里子は、厨房コーナーでコーヒーを入れるのに一生懸命だった。熱いコーヒーを出したら、きっと喜んでもらえると、とっさに取った行動だった。
 コーヒーを差し出す手が震えているのが、恥ずかしかった。
 それなのに、絵里子の口からは自分でも信じられない大胆な言葉が、発せられたのである。
 「支社長、今度一緒に飲みにいきませんか?」
 いきなりの申し出に、柴谷は、目を丸くした。
 「えっ!2人で?」
 「お暇の時にいいですから」
 「でも…」
 「大丈夫です。軍資金なら私が持っていますから」
 絵里子は、柴谷がお金がないから渋っているとは思わなかった。ただ、そう感じていると思って欲しかった。そうでなければ、そんな失礼なことは言えないのだ。
 お金の負担をかけたくない、それだけだった。
 「…それくらいの金、僕にもあるんだけど…」
 絵里子は、どこからこのエネルギーが出てくるのか不思議なくらい、積極的に押し続けた。
 「来週、私、公休日があるんです。水曜日ですけど、その日、私、夕方天神へ出てきます。会っていただけませんか?」
 一気にそこまで言っていた。不思議と、断られる気がしなかった。
 案の定、「いいよ」と、何ごともない口調で、柴谷はokしたのである。
 「大和生命ビルの1階に喫茶室があるのご存知ですか?」
 「ああ、あの10階建ての白いビル、知ってるよ」
 「そこで6時に待っています」
 「分かった」
 柴谷も、さすがに緊張した面持ちで応えた。
 前もって落ち合う場所を考えていたわけではなかった。何もかも咄嗟に判断したことだった。無我夢中の中で、絵里子は一途に恋する女に変身していたとしか言いようがなかった。
 柴谷の、分かった、という言葉で、絵里子は我に返った。とたんに、急に居たたまれなくなった。
 机の上をあたふたと片付けると、「お先に失礼します」と、言ってオフィスを飛び出していた。16へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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