2007年11月19日

小説・優しい背中

19
 柴谷は自信がありそうだった割には、それほど歌は上手くなかった。絵里子にはそれが返って好感が持てた。少しでも欠点がある方が柴谷を近くに感じることが出来た。
 柴谷が歌い終わると、他のグループの男性がマイクを持った。代わる代わる次々にマイクが渡った。柴谷は3曲歌った。
 「踊ろう」
 突然柴谷が絵里子の腕を掴んだ。
 思いもしないことだった。
 なぜなら、室内は人がやっと通れるくらいの狭さだったからダンスする状況ではなかったのだ。ただ、2階への上がり口に、辛うじて、畳1枚半くらいのスペースがあった。2階が住いになっているような感じの、作りになっていた。
 絵里子は、本当は踊りたかった。でも悲しいことに踊れなかった。踊れないことで、今までにもどれほど残念な思いをしてきたことか。かつて、あまりにしつこく誘われるので、思い切って応じたことがあった。しかし、あまりに相手の足を踏むので、その相手に、「悪かったね」、と途中でダンスを断念されてしまった。その時ほど惨めだったことはない。それから、どんなに誘われることがあっても、応じることはしなかったのである。
 それなのに、柴谷の誘いをどうしても拒めなかった。
 どうにかなる、と思ってしまった。
 柴谷の広い胸に抱かれてみたい、という衝動がとっさに沸いてきて、それをもう諦めることが出来なかった。
 「私、踊れないのですが、いいですか?」
 「ここで正式に踊れるわけないし、僕に任せて」
 柴谷は、優しく絵里子の肩を抱くと、曲に合わせて、適当にステップを踏んだ。不思議と絵里子の身体は、柴谷に誘導されるままにスムーズに動いたのである。
 客の1人がスローな曲を歌っていたが、何の曲か頭に入らなかった。ただ、柴谷の身体のぬくもりが、自分の胸に伝わってくるのを、絵里子は夢見心地で味わっていた。
 いつのまにか、自分から身を寄せて、こともあろうに顔まで胸にうずめていた。柴谷が身体をしっかり抱いてくれるのをはっきり感じ取った。自分の身体がもはや自分のものではないように、ゆらゆらと宙をさまよっているのを感じながら、絵里子は、夢なら覚めないで欲しいと願った。20へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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