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絵里子が席を立ったその時、デスクの電話が鳴った。
ドキッとした。一瞬不吉な予感がしたが、まさかとも思った。
「もしもし、大城さんいらっしゃいますか」
紛れもない愛しい柴谷の声だった。
柴谷とは、結局、携帯番号の交換もメールアドレスの交換もしないままだった。
以前、絵里子が何気なく「電話していいですか」と、聞いたことがあった。柴谷は「携帯に履歴が残るのイヤなんだ」と言った。その時はひどく傷ついたが、それほど私のことを秘密にして、大事にしているんだ、と良い方に解釈出来ないこともなかった。
絵里子の方も、実はその方が好都合だったのかもしれない。夫の泰三は、妻の携帯を覗くことは決してしないのだが、娘の里美は機能のチェックや、待ち受け画面のチェンジなどを進んでしてくれるのだ。その時、メールを読むこともあるらしく、「ママ、この人とはどういう知り合い?」と興味を持つこともあるのだ。娘にだけは隠し事は出来なかったのである。
お互いが暗黙の了解で、連絡は成り行き任せになっていた。
柴谷は、今日のデートのことで何らかの連絡をしてきたのだと思った。
「はい、大城です、こんにちは」
「柴谷です、こんにちは。今日のことだけど、僕やっぱり行けないから。すみません」
事務的な淡々とした口調だった。
今日のここまで何の連絡もなかったので、もう大丈夫だとほっとしていたところだった。絵里子は全身から力が抜けていくのを感じた。知らぬまにしゃがみ込んで受話器を握りしめていた。
「そうですか…、で来週は空いています?」
「だから、もうダメ、会えないよ」
「……」
「それじゃね」
柴谷は、きっぱりそう言って受話器を置いた。
絵里子は、受話器を握りしめたまま、呆然としてそのまましゃがみ込んでいた。59へ
(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)
2008年02月22日
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