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柴谷の存在は、妄想の世界でますます美化されていたのかもしれない。絵里子はますます柴谷に傾倒されていた。
とはいっても、何のアクションをするわけではなく、ただ心の中で想い続けていただけなのだが。
ちゃんとした夫がいるにもかかわらず、何も実体のない恋人を、好きだと思う気持や、悶々としたやるせない気持が、今絵里子が生きている証になっているのだ。それは彼女自身にも、不思議に思えることだった。
5月、福岡支社では、創立30周年記念式典が開催された。
博多港倉庫からも、広木監理部長と絵里子が出席した。
絵里子は永年勤続表彰を受けることになっている。
この式典が開かれることを知ってから、絵里子の頭の片隅に、歴代の支社長も出席するのでは、と思わなかったわけではなかった。
ただ、現在、宣伝部長として繁忙な職責の中、式典だけのためにわざわざ来ないだろうと、すぐに打ち消したのだ。ぬか喜びはしたくなかった。
その日、本社から社長以下数名の社員が出席していた。
その中に、何と柴谷の姿があったのである。
その懐かしい姿を確かに目にした時、絵里子の心臓は、音をたてて波打ち始めたのである。
そして、式典の間中、頭が真っ白になっていた。
いつ、どんな風にして壇上に行き表彰状を受け取ったのかさえ、殆んど無意識状態だった。
絵里子が落ち着きを取り戻したのは、式典終了後、東部ホテル大広間で開かれたパーティー会場だった。
そこには関係者100名余りが参加していた。立食式のその会場には大勢の人がごった返していた。
柴谷がどこにいるのか気になったが、すぐに彼を探すのもさすがに躊躇させられた。
絵里子は香りに誘われ、ワインを所望していた。そしてグラスを手に、取敢えず、サイドに設置されている椅子に腰をかけた。65へ
(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)
2008年03月12日
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