2008年03月18日

小説・優しい背中

66
 絵里子は、うん?と思ったが、一応、
 「はい、お蔭様で…」と答えた。
 しかしやはり、柴谷の言ったことばに、何か違和感があった。
 身体のあらゆる部分の細胞が、ひとつひとつパチパチと切れていくような感じがした。そしてついに全身が切れたと感じた時、スッコーンと、何かが転がり落ちていったのである。何かが…。
 柴谷の声が遠のいていった。顔がかすんでいった。
 今の今まで、あれほど熱かった恋慕の情が、スーと水が退くように消え去っていった。
 いったい、何がおきたのだろう。
 2年余り、1日たりとも彼のことを想わない日はなかった。苦しいこともあったが、彼のことをあれこれ想うだけで幸せだった。
 そんなせつない想いも、いつかは自然に消えていくのだろうとは思っていた。しかしそれには、少なくとも4〜5年はかかると思っていた。
 それが、こんな一瞬のうちに、見事に無くなってしまうとは。
 痛んで眠れなかった虫歯が、何かの拍子で抜け落ちたような、不思議な軽快さだった。

 夫の泰三のことを、バカにされたからなのか。
 それが、取りも直さず、絵里子自身を踏みにじられたように感じたのか。
 尊敬し、恋い慕っていた男が、実は普通の男だと分かったからなのか。
 愛は片方だけでは成り立たないということを、改めて知らされたからなのか。
 はたまた、ずっとないがしろにされていた積み重ねが、柴谷の一言にショックを受け、いきなり爆発したのか。
 とにかく、あっけない、柴谷への恋慕の幕切れだった。
 柴谷への愛が、一瞬にして泡となって消え去ったことに、自分自身驚くばかりだった。
 「お元気で」と、柴谷に軽やかに挨拶して、女性だらけのそのテーブルを離れた。
 その時絵里子は、生まれ変わったような爽やかな気持だった。
 その後、かつて隣の席にいた、平林啓太や、副支社長の荒井健介と、他愛の無いおしゃべりをした。何気ないその場の穏やかな雰囲気が限りなく貴重に思えた。絵里子は心から楽しんだ。感謝の気持でいっぱいだった。幸せだった。
 何もかも新鮮だった。
 やがて、パーティーは終了した。
 絵里子は、いつになく、自宅が恋しかった。
 自宅には、夫の泰三が待っている。
 一刻も早く泰三の温和な顔が見たかった。
                           完

(上記〈小説・優しい背中〉は今回をもって完結しました)

posted by hidamari at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック