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絵里子は、うん?と思ったが、一応、
「はい、お蔭様で…」と答えた。
しかしやはり、柴谷の言ったことばに、何か違和感があった。
身体のあらゆる部分の細胞が、ひとつひとつパチパチと切れていくような感じがした。そしてついに全身が切れたと感じた時、スッコーンと、何かが転がり落ちていったのである。何かが…。
柴谷の声が遠のいていった。顔がかすんでいった。
今の今まで、あれほど熱かった恋慕の情が、スーと水が退くように消え去っていった。
いったい、何がおきたのだろう。
2年余り、1日たりとも彼のことを想わない日はなかった。苦しいこともあったが、彼のことをあれこれ想うだけで幸せだった。
そんなせつない想いも、いつかは自然に消えていくのだろうとは思っていた。しかしそれには、少なくとも4〜5年はかかると思っていた。
それが、こんな一瞬のうちに、見事に無くなってしまうとは。
痛んで眠れなかった虫歯が、何かの拍子で抜け落ちたような、不思議な軽快さだった。
夫の泰三のことを、バカにされたからなのか。
それが、取りも直さず、絵里子自身を踏みにじられたように感じたのか。
尊敬し、恋い慕っていた男が、実は普通の男だと分かったからなのか。
愛は片方だけでは成り立たないということを、改めて知らされたからなのか。
はたまた、ずっとないがしろにされていた積み重ねが、柴谷の一言にショックを受け、いきなり爆発したのか。
とにかく、あっけない、柴谷への恋慕の幕切れだった。
柴谷への愛が、一瞬にして泡となって消え去ったことに、自分自身驚くばかりだった。
「お元気で」と、柴谷に軽やかに挨拶して、女性だらけのそのテーブルを離れた。
その時絵里子は、生まれ変わったような爽やかな気持だった。
その後、かつて隣の席にいた、平林啓太や、副支社長の荒井健介と、他愛の無いおしゃべりをした。何気ないその場の穏やかな雰囲気が限りなく貴重に思えた。絵里子は心から楽しんだ。感謝の気持でいっぱいだった。幸せだった。
何もかも新鮮だった。
やがて、パーティーは終了した。
絵里子は、いつになく、自宅が恋しかった。
自宅には、夫の泰三が待っている。
一刻も早く泰三の温和な顔が見たかった。
完
(上記〈小説・優しい背中〉は今回をもって完結しました)
2008年03月18日
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