2011年07月27日

ミニミニ小説・牡丹 bR8

 まるでそれは死の底から聞こえてくるような悲しい響きだった。そしてそれは隣のベッドの美也子さんのすすり泣く声だった。
 アサミはそれで目が覚めた。室内はすっかり朝モードだったし、うっすらと明るかった。アサミは朦朧とした中だったが、城ノ内だと思ってしっかり抱きしめていたのは、抱き枕だったことに気が付いた。
 「先生!」…夢だったのだ。
 なるほど、と納得して、おもむろにその大きな抱き枕を横に置いた。
 面映ゆかったが、身体にはまだ城ノ内の余韻があった。夢だと分かっても幸せな気分だった。
 枕元には読みかけの「薔薇と牡丹」という小説本があった。薔薇と牡丹という名前の美人姉妹が数奇な運命を辿るという物語である。昨日の昼間読んでいた本だった。
 牡丹…、なるほど良い名前かもと思った。赤ちゃんは女の子と既に分かっていたから。
 それにしてもリアリティーな夢だった。
 ただ、アサミは城ノ内のことなど、今は何とも思っていない。もちろん、城ノ内がアサミのことをどうこう思っているはずもない。確かにアサミは、一方的に彼に熱を上げていた時もあった。あの日一夜限りの関係を持ったことを決して後悔はしていないが、お互いが燃え上がって結ばれた感覚ではなかった。儀式のようなものだった。
 今考えれば、その時授かった命は、ただ幸運だったとしかいいようがない。
 人工授精が1回で成功したようなものだ。
 永遠に父親の存在を明かすつもりはない。
 夢の中の出来事は、アサミの思いが導いたことなのだ。
 幸せで不思議なお告げだった。
 その日の夕方、美也子さんは、旦那さんが迎えに来るのを待って、悲しそうな笑顔を残して退院していった。
 その後ベッドの布団を片づけにきた看護師さんが、彼女が今日未明に、流産したことを教えてくれた。
 アサミも他の2人も、そのことは予想していたことだった。
 それで、その日ずっと病室は沈んでいた。
 「2度目だから、旦那さんもそれはがっかりして、とてもお気の毒でした」と、看護師さんは淡々と言った。
 アサミは、自分は元気な牡丹に会えるのだと思った。
 もしかしたら、美也子さんより自分の方が幸せなような気がした。
   完

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載してきましたがこれを持って終了しました)

posted by hidamari at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック