2015年05月27日

映画“アンナカレーニナ”

 2012年 イギリス映画  原作 トルストイ「アンナカレーニナ」
 監督 ジョー ライト 
 キャスト  キーラー ナイトレイ  ジュード ロウ  アーロン テイラー=ジョンソン

 この映画がテレビ放映された時、私は迷わず録画した。
 なぜなら、この手の物語、いわゆる19C西洋の貴族社会の物語が好きなこともあるが、アンナカレーニナはあまりにも有名、社会人になって毎月配付される文学全集を購入していたのだが、その中に含まれていて、で、原作を読んでいたこともある。
 しかも私には思い出深い映画だったから。
 そう、過去に1度劇場で観たことがあるのだ。
 しかも、私が初めて異性とデートした時である。19歳だった。
 その時のアンナ役はヴィヴィアン・リー、美しかった。
 今回のキーラー・ナイトレイはどちらかというと個性的な美人で正統派美人ではない。その点ヴィヴィアン・リーは、気品がありそれでいて妖艶で、役ぴったりだったような。
 前場面を通してその1948年の作品は、もっと重厚で暗いイメージだったような。
 当時の私はこの映画の内容があまり理解できなかった。そして、デートに選ぶ映画ではなかった、と思ったことを覚えている。
 それは気持ちが滅入るばかりだったから。しかもデートの相手は、私の片思いの男性で、私から大胆にも無理に誘ったこともあり、彼がつまらなそうにしていたことが、さらに気持ちを落ち込ませた。
 そんな苦い思い出の映画だが、私の好きなジャンルであることには間違いない。

 「幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある」
 原作の冒頭のことばである。
 この物語は2人の女性、いわゆるアンナとキティー(兄嫁の妹)の生き方を対比させることで、このことばを示唆しているのではないだろうか。
 アンナは美人で聡明、裕福で地位のある夫と可愛い息子がいて、何の不満もない幸せなセレブ生活を送っていた。
 そこに突然現れた若くてハンサムな貴族将校から、熱い愛の告白を受けたとしたら。
 アンナは夫と子供がある身、他の男性に恋愛感情など持つはずはないと自分に何の疑いも持っていなかった。……ところが男の度重なる熱い想いに触れた時、プツンと恋愛感情の鍵が解放されてしまった。 その時、女はどんな行動に走るのか。 アンナは真の自分の気持ちを知る。いかに自分が満たされていなかったかを。それからは、恥も外聞も捨てて男に溺れていく。
 夫には触られるのも虫唾が走るほど、本来の恋愛体質になっていくが、ただ母性は増すばかりだった。息子は失いたくないが、ヴロンスキーとは一緒になりたい。何かを得るためには、何かを捨てなければならない、という掟が守れない。両方とも欲しいアンナ。それがために離婚がままならない。当然ヴロンスキーもストレスがたまる。外でうさをはらすこともある。アンナは男を独占したいあまり、彼の愛を信じられなくなる時も。
 不倫愛の行く末は、破滅か心中しかないのがお決まり。
 アンナの場合、アンナは自殺し、ヴロンスキーは志願して戦地へ赴く。原作はどうだったか忘れたが、きっと、戦死するのだろう。
 映画では、後年、夫のカレーニンが、息子とアンナとヴロンスキーの間に生まれた娘を引き取って育てている姿があった。
 結局だれが1番幸せで、だれが1番不幸だったかを考えてみた。
 アンナはヴロンスキーと出会ったことが、幸福と不幸の始まりだった。
 彼との間に娘が生まれるまでは、紆余曲折はあったが、アンナが1番幸せだったのではないだろうか。その後は愛が強ければ強いほど、不安が増え、モルヒネがないと眠れないほどボロボロになっていった。そして死。そこではアンナが1番可哀そうで不幸だった。
 私の感想は、結局アンナが1番幸せで、1番不幸だったということ。
 それに対比して義妹のキティーは、ヴロンスキーにふられたが、禍転じて福となる、で心優しい地主のリョーヴィンに乞われて結婚し、平穏な生活を送る。
 人間の一生、太く短く生きるのか、細く長く生きるのか。
 そしてどちらが幸福といえるのか。
 それは誰にもわからないことである。
 ただ、私は、細く長く生きるのがいいかなあ。
posted by hidamari at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 読後感・映画の感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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