※73
それから、どんな会話をして、どういう風にして、そこまで送ってもらったのか、晴美はよく覚えていない。とにかく、家の前まで送ると言われたのを断って、団地の入口で車を降りたこと。降りる時、後の座席に置いていた花束を忘れそうになって、「これ、忘れたらダメじゃない」と啓介に諭されたこと。最後に「元気で」と握手を求められ、啓介の白くて指の長い大きな手と握手したこと。その手がスベスベして、とても気持よかったことをぼんやり覚えているだけだった。
晴美の頭の中には、ただ啓介の「30年後に会おう」と言ったことばだけが1人歩きして、グルグルと絶え間なく動き回っていた。
啓介は、どういう意図で、果たせそうにもない遠い未来の約束などをしたのだろう?
晴美が啓介を想っていることを不憫に思い、傷つけないようにやんわり引導を渡したつもりなのか。それなら何もこんな手の込んだことをしなくても、とっくに晴美の方では諦めがついていることだった。
それに、30年後のことなど誰が信用出来るのだろうか?
晴美は、2〜3年もせずに忘れてしまうだろうと思いながら、一方では、きっと忘れることはないだろうとも思っている。
晴美にとって、初恋は失恋に終ったものの、思わぬ不思議な余韻を残すものになったのである。
《完》
(短編のつもりが、だらだらと長くなってしまいましたが、これで、小説〔茜雲〕は完結しました)
2006年06月25日
2006年06月23日
小説〔茜雲〕
※72
「東元さん!あのォ…」と、晴美は啓介の背中に向かって声をかけた。
「うん?何?」啓介は立ち止まり、優しく応えた。
「これ、ホントにつまらない物ですが、記念に…どうぞ!」と、その袋を差し出した。
「俺に?…ありがとう」びっくりしたように袋を受け取ると、中のストラップを出し、チリンチリンと蛙の鈴を鳴らした。
「かわいいね、これ俺にカエルコール?」
「そんな…、別に意味ないです。忘年会の旅館で買って、そのままバッグに入れて忘れてたの、今思い出したんです。何もお礼にあげる物ないんで……」
「うん、大事にする」
「いえ、すぐ壊れるかも」 急に恥ずかしくなった晴美は、紅潮した顔を何度も手で押さえた。
再び目の前を無言で歩いていく啓介の背中を目で追いながら、晴美は遅れないように付いていった。
すると、突然啓介が足を止めて振り返った。
そして、
「俺、ずっと考えてたんだけど、俺たち30年後に、また会わないか?」と、ボソッと言った。
啓介のそのことばを、晴美はすぐには理解出来なかった。
「えっ、何ですって」
頭の中で ―30年後、私51歳、彼57歳―と計算した。
「ロマンティックですね、でもそんな先に会えるんでしょうか」
「うん、俺、死んじゃってるかもしれないし、…でも生きていて君のこと忘れていなかったら、あのバス停で、30年後の今日、3月31日夕方6時に、…会おうよ。あのバス停も残っているかどうか分かんないけど、その時は、病院の入口とかで、…会おうと思う気持ちがあれば、会えるんじゃないかなあ」
「すごいですね。分かりました。これで30年間希望を持って生きていけますね。…でも忘れないでいれるかな、ウフフ」
「何、同窓会と思えばいいんだ、きっと忘れないよ」※73へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
「東元さん!あのォ…」と、晴美は啓介の背中に向かって声をかけた。
「うん?何?」啓介は立ち止まり、優しく応えた。
「これ、ホントにつまらない物ですが、記念に…どうぞ!」と、その袋を差し出した。
「俺に?…ありがとう」びっくりしたように袋を受け取ると、中のストラップを出し、チリンチリンと蛙の鈴を鳴らした。
「かわいいね、これ俺にカエルコール?」
「そんな…、別に意味ないです。忘年会の旅館で買って、そのままバッグに入れて忘れてたの、今思い出したんです。何もお礼にあげる物ないんで……」
「うん、大事にする」
「いえ、すぐ壊れるかも」 急に恥ずかしくなった晴美は、紅潮した顔を何度も手で押さえた。
再び目の前を無言で歩いていく啓介の背中を目で追いながら、晴美は遅れないように付いていった。
すると、突然啓介が足を止めて振り返った。
そして、
「俺、ずっと考えてたんだけど、俺たち30年後に、また会わないか?」と、ボソッと言った。
啓介のそのことばを、晴美はすぐには理解出来なかった。
「えっ、何ですって」
頭の中で ―30年後、私51歳、彼57歳―と計算した。
「ロマンティックですね、でもそんな先に会えるんでしょうか」
「うん、俺、死んじゃってるかもしれないし、…でも生きていて君のこと忘れていなかったら、あのバス停で、30年後の今日、3月31日夕方6時に、…会おうよ。あのバス停も残っているかどうか分かんないけど、その時は、病院の入口とかで、…会おうと思う気持ちがあれば、会えるんじゃないかなあ」
「すごいですね。分かりました。これで30年間希望を持って生きていけますね。…でも忘れないでいれるかな、ウフフ」
「何、同窓会と思えばいいんだ、きっと忘れないよ」※73へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月21日
小説〔茜雲〕
※71
考えてみると、晴美はバス停からこの海辺まで、どういう風にして辿り着いたか覚えていない。目の前に広がっている、吸い込まれるように深いエメラルドグリーンの海も、全く目に入っていなかった。
ただ、もう1度東元と一緒にこの海に来たいと、夢のように想像していたことが、こうして現実になっていることが、信じられないでいる。
ブローチを手にしたまま、沈黙の時間が流れた。
晴美はふっと、―私も、記念になる物を、何か東元さんにあげたい―という思いにかられた。
今まで、クリスマスや彼の誕生日に、プレゼントしたい、と思わなかったわけではない。しかし、それをしたら返って東元に迷惑をかけることだった。
でも今、ブローチのお返しをしてもいいのではと思ったのだ。とはいえ、この場ではもう遅すぎる。手許にプレゼントに出来るものなどあるはずがなかった。
「俺みたいな男じゃなくて、今度は真面目な良い男を見つけるんだよ」と、啓介がポツリと言った。
啓介のことばに晴美は、今まで平静を装っていた感情が一気にはじけていくのを感じていた。
後から後から涙が頬を濡らした。
―この先、東元さんみたいな男性が現れたら、絶対逃しませんから―と心の中で呟いた。
「それに俺、X線被ってるしね」と、啓介は自分に言い聞かせるように呟いた。そして「そろそろ、帰ろうか」と、すっと立ち上がった。
晴美は「ええ」と、あわててブローチをしまい、涙をそっと拭いた。
そして、泣いてるどころではないと思った。
何気に言った啓介のことばがひっかかったのだ。
「…ホントですか?X線被っているって?」と、啓介におそるおそる尋ねた。
「えっ、うん、普通の人と比べたら、うんとね。俺、面倒くさくて、時々防具も付けないんだ」
「そんなあ、絶対気を付けて下さいね」
「有難う、……ま、大丈夫だから」啓介は、先になり岩を渡りながら帰り始めた。
大丈夫と啓介が言っている以上、心配しても仕方のないことだった。
晴美はいよいよこれでお別れなんだ、と改めて思い、啓介の後をトボトボとついていった。
夕陽が水面に映し出され、ゆらゆら揺れていた。
歩きながら、ふっと啓介にふられた忘年会の夜のことを思い出していた。
そういえば、あの時、失意を癒すため、旅館の売店で、蛙の鈴が付いたストラップを買ったっけ。あのストラップ…。
晴美は、はっとして、ハンドバッグの中を探した。袋に入ったまま、そのストラップが出てきたのである。※72へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
考えてみると、晴美はバス停からこの海辺まで、どういう風にして辿り着いたか覚えていない。目の前に広がっている、吸い込まれるように深いエメラルドグリーンの海も、全く目に入っていなかった。
ただ、もう1度東元と一緒にこの海に来たいと、夢のように想像していたことが、こうして現実になっていることが、信じられないでいる。
ブローチを手にしたまま、沈黙の時間が流れた。
晴美はふっと、―私も、記念になる物を、何か東元さんにあげたい―という思いにかられた。
今まで、クリスマスや彼の誕生日に、プレゼントしたい、と思わなかったわけではない。しかし、それをしたら返って東元に迷惑をかけることだった。
でも今、ブローチのお返しをしてもいいのではと思ったのだ。とはいえ、この場ではもう遅すぎる。手許にプレゼントに出来るものなどあるはずがなかった。
「俺みたいな男じゃなくて、今度は真面目な良い男を見つけるんだよ」と、啓介がポツリと言った。
啓介のことばに晴美は、今まで平静を装っていた感情が一気にはじけていくのを感じていた。
後から後から涙が頬を濡らした。
―この先、東元さんみたいな男性が現れたら、絶対逃しませんから―と心の中で呟いた。
「それに俺、X線被ってるしね」と、啓介は自分に言い聞かせるように呟いた。そして「そろそろ、帰ろうか」と、すっと立ち上がった。
晴美は「ええ」と、あわててブローチをしまい、涙をそっと拭いた。
そして、泣いてるどころではないと思った。
何気に言った啓介のことばがひっかかったのだ。
「…ホントですか?X線被っているって?」と、啓介におそるおそる尋ねた。
「えっ、うん、普通の人と比べたら、うんとね。俺、面倒くさくて、時々防具も付けないんだ」
「そんなあ、絶対気を付けて下さいね」
「有難う、……ま、大丈夫だから」啓介は、先になり岩を渡りながら帰り始めた。
大丈夫と啓介が言っている以上、心配しても仕方のないことだった。
晴美はいよいよこれでお別れなんだ、と改めて思い、啓介の後をトボトボとついていった。
夕陽が水面に映し出され、ゆらゆら揺れていた。
歩きながら、ふっと啓介にふられた忘年会の夜のことを思い出していた。
そういえば、あの時、失意を癒すため、旅館の売店で、蛙の鈴が付いたストラップを買ったっけ。あのストラップ…。
晴美は、はっとして、ハンドバッグの中を探した。袋に入ったまま、そのストラップが出てきたのである。※72へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月19日
小説〔茜雲〕
※70
「そんな大切なもの、私が貰えるわけありません」晴美が出した結論だった。
「心配するなよ、それほど高い物でもないし。それに、何も大意がある訳じゃないから。男の俺が持ってても使えるわけないし、…かといって誰彼にあげるわけいかないだろう?あげるには君が1番適当だと思ったんだ」
「東元さん、それは彼女にあげるべきでしょ」
「もちろんそれは考えたよ、でも彼女、こんなダサイなもの、するわけないだろう、日頃付けてるアクセサリー見れば分かるから」
「……」
「あっ、ゴメン、決して君がダサイというんじゃないよ。……大意はないんだ。ただ1年間の君との思い出に、何か記念になるものをあげようって考えたんだけど、思いつかなくてさ。そしたらお袋のこのブローチを思い出したんだ。お袋も喜ぶと思うんだ。俺が似合いそうな人を選んであげること…。時々洋服につけて貰えればそれでいいから」
啓介は箱からブローチを出して晴美に
「ねっ、貰ってくれるだろう」と言った。
星の形をした2センチ四方くらいの銀台に1センチくらいのピンク色をしたよく巻いた真珠の玉がキラキラ輝いていた。
「わあー、綺麗!」
晴美は正直素晴らしいものだと思った。
―これをホントに私が貰えるの?―夢の中にいるようだった。
「ホントにいいんですか?」
「もちろん」
「それじゃ、大事に大事に…使わさせて頂きます。有難う」晴美はおそるおそる手を出し、それを受け取り胸に押し当てた。※71へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
「そんな大切なもの、私が貰えるわけありません」晴美が出した結論だった。
「心配するなよ、それほど高い物でもないし。それに、何も大意がある訳じゃないから。男の俺が持ってても使えるわけないし、…かといって誰彼にあげるわけいかないだろう?あげるには君が1番適当だと思ったんだ」
「東元さん、それは彼女にあげるべきでしょ」
「もちろんそれは考えたよ、でも彼女、こんなダサイなもの、するわけないだろう、日頃付けてるアクセサリー見れば分かるから」
「……」
「あっ、ゴメン、決して君がダサイというんじゃないよ。……大意はないんだ。ただ1年間の君との思い出に、何か記念になるものをあげようって考えたんだけど、思いつかなくてさ。そしたらお袋のこのブローチを思い出したんだ。お袋も喜ぶと思うんだ。俺が似合いそうな人を選んであげること…。時々洋服につけて貰えればそれでいいから」
啓介は箱からブローチを出して晴美に
「ねっ、貰ってくれるだろう」と言った。
星の形をした2センチ四方くらいの銀台に1センチくらいのピンク色をしたよく巻いた真珠の玉がキラキラ輝いていた。
「わあー、綺麗!」
晴美は正直素晴らしいものだと思った。
―これをホントに私が貰えるの?―夢の中にいるようだった。
「ホントにいいんですか?」
「もちろん」
「それじゃ、大事に大事に…使わさせて頂きます。有難う」晴美はおそるおそる手を出し、それを受け取り胸に押し当てた。※71へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月17日
小説〔茜雲〕
※69
晴美と啓介は、昨年夏海水浴に来た海辺の岩に腰掛けていた。
「東元さんがもうちょっと遅かったら私バスに乗っていましたよ。でもラッキー!呼び止めて下さって」
晴美は、妙にハイテンションになっていた。
思い描いていた夢のようなことが、現実になった喜びが晴美の心を浮き立たせていたのだ。
「うん、申訳ない。帰りがけに市原先生から用を言い付かったものだから遅くなったんだ。……もう居ないかなあってヒヤヒヤしたよ、よかった間に合って」
啓介は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「今日は、餞別記念に、君にあげたい物があったから。それで、ぜひ君に会いたかったんだ」と言いながら、啓介はポケットから小さな桐箱を取り出した。
「これ、君に似合うかな、って思ったものだから、……お袋のものだったんだ」
「えっ、…お母様の?」
「真珠のブローチ、小さいけどかわいいんだ。君にならきっと似合うよ」
男性からプレゼントを貰う経験がなかった晴美にとって、こんなことは、想像だに出来ないことだった。しかも憧れの啓介から、ましてや母親の形見のアクセサリーを貰うとは。いったい、どういう意味があるのだろうか?
晴美は、餌を前にした犬がお預けをくったように、目を丸くしたまま、頭の中はいろいろなことを思い巡らしていた。※70へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
晴美と啓介は、昨年夏海水浴に来た海辺の岩に腰掛けていた。
「東元さんがもうちょっと遅かったら私バスに乗っていましたよ。でもラッキー!呼び止めて下さって」
晴美は、妙にハイテンションになっていた。
思い描いていた夢のようなことが、現実になった喜びが晴美の心を浮き立たせていたのだ。
「うん、申訳ない。帰りがけに市原先生から用を言い付かったものだから遅くなったんだ。……もう居ないかなあってヒヤヒヤしたよ、よかった間に合って」
啓介は穏やかな笑みを浮かべながら言った。
「今日は、餞別記念に、君にあげたい物があったから。それで、ぜひ君に会いたかったんだ」と言いながら、啓介はポケットから小さな桐箱を取り出した。
「これ、君に似合うかな、って思ったものだから、……お袋のものだったんだ」
「えっ、…お母様の?」
「真珠のブローチ、小さいけどかわいいんだ。君にならきっと似合うよ」
男性からプレゼントを貰う経験がなかった晴美にとって、こんなことは、想像だに出来ないことだった。しかも憧れの啓介から、ましてや母親の形見のアクセサリーを貰うとは。いったい、どういう意味があるのだろうか?
晴美は、餌を前にした犬がお預けをくったように、目を丸くしたまま、頭の中はいろいろなことを思い巡らしていた。※70へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月15日
小説〔茜雲〕
※68
3月31日病院勤務最後の日、晴美は通常通りの業務をこなした。
終業時間になった。
事務局長をはじめ事務局職員が、中村と晴美を見送るべく玄関に集まっていた。秋津が晴美に花束を渡しながら、目を潤ませていた。
晴美は、皆の拍手の中で玄関を出た。中村も花束を手に一応玄関を出たが、まだ仕事が残っているのか、Uターンして事務所に戻った。
晴美は、花束を胸に、そのまま病院の坂道を下りてバス停へと向かった。最初の頃、この坂道が嫌でたまらなかった。この坂道がそんなに嫌でなくなったのは、やはり啓介の存在があったからだろう。その啓介とのあっけない別れだけが、晴美の胸の奥で、後ろ髪を引かれるように、チクチク痛んでいた。
晴美はバス停に立っていた。
―今、あの坂道を啓介のバイクが下りてきてくれたらなあ―
しかし、そんな時に限ってバスはすぐ来た。
―やっぱり、そんなはずないか―そう思い、バスに乗ろうとした瞬間、車の大きな警笛音が晴美の耳に突き刺さった。
―えっ!まさか東元さん?―晴美はバスのタラップから足を踏み外しそうになった。ヒャッとしながら、警笛音の方を振り返ると、まさかの啓介が、バスの真後ろに付けたブルースカイラインの窓から身を乗り出して、晴美に手招きしていた。※69へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
3月31日病院勤務最後の日、晴美は通常通りの業務をこなした。
終業時間になった。
事務局長をはじめ事務局職員が、中村と晴美を見送るべく玄関に集まっていた。秋津が晴美に花束を渡しながら、目を潤ませていた。
晴美は、皆の拍手の中で玄関を出た。中村も花束を手に一応玄関を出たが、まだ仕事が残っているのか、Uターンして事務所に戻った。
晴美は、花束を胸に、そのまま病院の坂道を下りてバス停へと向かった。最初の頃、この坂道が嫌でたまらなかった。この坂道がそんなに嫌でなくなったのは、やはり啓介の存在があったからだろう。その啓介とのあっけない別れだけが、晴美の胸の奥で、後ろ髪を引かれるように、チクチク痛んでいた。
晴美はバス停に立っていた。
―今、あの坂道を啓介のバイクが下りてきてくれたらなあ―
しかし、そんな時に限ってバスはすぐ来た。
―やっぱり、そんなはずないか―そう思い、バスに乗ろうとした瞬間、車の大きな警笛音が晴美の耳に突き刺さった。
―えっ!まさか東元さん?―晴美はバスのタラップから足を踏み外しそうになった。ヒャッとしながら、警笛音の方を振り返ると、まさかの啓介が、バスの真後ろに付けたブルースカイラインの窓から身を乗り出して、晴美に手招きしていた。※69へ
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月13日
ピーマン

※
忘年会旅行の夜以来、晴美の自分に対する態度が特に変わったという様子はなかったが、啓介自身は少し後ろめたい心を引きずっていた。
それを払拭するために、矢部も誘い晴美と3人で、1度食事にでも行こうと考えていた。が、晴美と会うなら2人きりで、矢部になど邪魔されたくないという考えが、啓介にはなぜか根強くあったのである。躊躇している間に、3月を迎えてしまっていた。
そんな時、晴美の転勤を知らされた。寝耳に水のことだった。
啓介は少なからず動揺した。
実母と晴美が重なり合い、啓介に背を向けて遠ざかっていった。実母との縁も薄かったように、実母によく似た晴美という女との縁もまた薄かったのだ。
手を差し伸べれば、いつでもすぐ届きそうだった。
そのことに安心して、毎日遠くから眺めているだけだった。
啓介はそれだけで十分癒されていたのだ。
こんなにあっけなく、晴美との別れがきてしまうとは。
啓介は運命だと思わざるをえなかった。
転勤が決った時、晴美は、レントゲン室にも挨拶にきた。
その時、啓介は事務的に、「今後も頑張るように」と、言った。
矢部は、何のくったくもなく「おまえ、もう少しおしゃれしろよ、今のままじゃ永久に彼氏も出来ねえぞ」と、晴美をからかっていた。
啓介は、事務的な言葉以外何も言ってやれなかった。
どんな女の子にも、気後れなどしたことがない啓介だったが、その日の晴美の前では寡黙だったのである。※68へ
(写真は、プランターで育てているピーマン。今花が終った状態)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月11日
'06 カシワアジサイ

異動が決ってから4月までの1週間、晴美は毎日残業をした。
発つ鳥後を濁さず、という言葉がある。晴美は次の人が困らないように、本来4月になってするべき事務もかたづけてしまうほど、事務引継ぎをきっちりやった。晴美の後任は40代の女性ということだった。
病院全体で送別会をするという習慣はなかったが、事務局では、中村と晴美の送別会が開かれた。
やっと病院全体のしくみや、職員の顔を覚えた所だった晴美にとって、いざ転勤となると、嬉しいと思う反面、寂しい気持ちもあった。
転勤の辞令をもらった後、晴美は、医師、看護師等会う人毎に、転勤の挨拶をした。誰も彼も、「おめでとう、ご苦労さんでした」と、言ってくれる。晴美は改めて、晴れがましく、また、皆と別れることに一抹の寂しさも感じるのだった。
仕事の合間に息抜きにくる矢部は、
「知らなかったなあ、川口さんが転勤を希望してたなんて…、俺を見捨てて行っちゃうんだね」と、軽口をたたく。
「別に希望してたわけじゃないよ、……ただ、採用される時、英語を生かせる仕事がしたいと申し出てはいたけどね」
「…すっごい!おまえ、英語喋れるのかよ、聞いてねえぞ」
「それほどでもないけどね」と応えながら、こうして気軽に話せる友人ができた病院勤務もけっこう楽しかったことを噛みしめていた。
楽しかったもう1つの大きな理由は、啓介の存在であった。
しかし、啓介との別れを考える時、悲しいという気持ちよりホッとする気持ちを、より大きく感じていた。そのことは、晴美自身心からホッとしたことだった。※67へ
(写真は、今年咲いたカシワアジサイ。昨年一回り大きな鉢に植え替えたもの)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月09日
D花菖蒲

晴美は、21歳のお正月を迎えた。
その後、1月、2月はあっという間に過ぎ去った。
社会人になっての1年間は、学生時代のそれとは違い、人間として、女性としてぐんと成長したと、晴美は実感していた。
3月末、小川市は4月定期人事異動の内示を発表した。
病院ではたいていの職種が専門職なので、人事異動といっても、事務職に限られたものだった。
事務局では、中村係長が丸5年になるというので、もうそろそろ異動の時期かと噂されていた。
1年目の晴美が、異動になるとは誰1人として予想はしていない。
しかし、当日、晴美は、朝から落ち着かなかった。昨年秋、市役所の人事課長から、「4月の異動で、市役所に転勤させる」と言われていたことを、半信半疑ながら、どこかで期待していたからだ。
中村が、病院に出勤する前に市役所に寄って、内示の通知を貰ってくることになっていた。
お昼前、中村はそそくさと事務所に入ってきた。
「川口さんが市役所の広報室へ異動しているよ。びっくりしたなあ」と誰に言うでもなく呟いた。
「えっ、それで係長はどうなんですか?」と、秋津をはじめ職員たちがぞろぞろと中村の席へ集まった。
中村は「ああー、私はお陰様で市役所の福祉課へ…」と言い、ちょっと嬉しそうに笑った。
晴美は、人事課長の顔を思い浮かべ、
―あの時、何気なく私に言ったことをちゃんと守ってくれたんだ―と、人事課長の誠実さに、いたく感動していた。そして、どこかで世の中はそんなに甘い物ではないと思っていた晴美には、案外世の中は捨てたもんじゃないのかも、と思わせた人事異動だったのである。※66へ
(写真は、城跡公園の花菖蒲)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月07日
B花菖蒲

※
―ふられたんだ―晴美は全身から力が抜けていくのを感じていた。張りつめていた心が、プツンと音をたてて崩れ落ちた。
しかし、心のどこかで、もしかしたらチャクメロが聞えていないのかもしれない、と思おうとしている。そう思うと絶対そうだと思えてきた。何度も何度もコールした。時間をおいてまた何度もコールしていた。
我に返ると―私はいったい何をしているのだろう、これではまるでストーカーだわ―と、情けなさと恥かしさが、波のようにおしよせてきた。
東元さんは、私のこと何とも思っていないのだと、再認識するしかなかった。
明日は何でもなかったように、明るい笑顔で「昨晩何度も電話したんですよ。電話、出なかったですねぇ」と言おうと思った。
もともと、晴美にとって、啓介は他人の恋人、どうなるものではないと分かりきっていたことだった。
旅先で、ちょっとお酒を飲んでいたせいで、自分を忘れてしまい、アバンチュールな行動を取ったまでのこと。何も大意はなかったのだ。
後悔することも落ち込むことも止めよう、青春の苦い思い出として、晴美は心の中にしっかりと受け止めようと思ったのである。※65へ
(写真は、城跡公園の花菖蒲)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月05日
A公園の花菖蒲

※
親が何回廻って来ただろうか?
時計は11時を廻っていた。
啓介のマージャン卓のメンバーは院長、若い医師、事務局の中村係長と啓介だったが、そこまでの成績は、中村の1人勝ち状態だった。啓介はプラス、マイナストントンというところだろう。
マージャンに限らず勝負事というのは、勝ち逃げするのは気が引けるものだが、トントンなら、代わりのメンバーがいれば抜けることはさほど難しいことではない。
たまたま後で観戦していた、薬局長と啓介は交代することが出来た。
啓介がマージャンを抜けようと考えたのは、何も計画的なことではなかった。
1つはとても眠かったこともある。しかし、1番の理由は後で観戦していた薬局長に気を使ったからである。当初、8人のメンバーが、2卓でゲームを始めたのが、いつの間にか観戦者が寄ってきて参戦したがっていた。もう1卓では既にメンバーが交代しているようだった。1番若い啓介は、ここはやはり気をきかす必要があるだろうと思ったのだ。
啓介は遊技場の隅に置いてあるソファーに横になると、そのまま、すぐ寝入ってしまった。
夢の中で携帯のチャクメロが鳴っていた。
啓介は、晴美からの電話だろうな、とポケットの中の携帯を握ってぼんやり思った。
何度も何度もコールしていたが、啓介は無視した。
さっき約束した晴美だと分かっているのに、なぜ喜んで携帯に出ないのか自分でも理解出来ないことだった。
とにかく眠くてたまらないことは事実だが、電話に出るのをはばかられたことも事実だった。※64へ
(写真は、城跡公園の花菖蒲)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月03日
花菖蒲

※
何処をどう歩いてロビーまで来たのか、晴美は茫然と立ちすくんだ。
エレベーターに乗るだろう啓介を、廊下の陰で待ちぶせしていた時の、張り裂けるような胸のドキドキが今だに残っている。
その上、―会って下さい―と、自分から啓介に申し出た大胆な行動に、晴美は、恥かしさで頭が真っ白になっていた。
自分にこんな情熱があったことに晴美自身が驚いたのだから、啓介が驚いたのは当然である。
その驚いた顔が、今、晴美の目の奥に残像となって映し出されている。
「川口さん待ちだったんだよ、何してたんだよ。化粧でもしてたのか?おまえ、そんなことしてもちっとも変わらないんだからな」
10人くらいの若い看護師を引き連れて、ロビーのソファーに、深々と座ってタバコを吹かしていた矢部は、ニヤニヤしながら立ち上がった。
晴美の頭の中は、上の空状態だったが、不思議にちゃんと、
「すみません、お待たせして」と、頭を下げていた。
スナックでは、飲んだり歌ったりダンスしたり、多いに盛り上がった。
矢部も看護師も上機嫌だった。
しかし、晴美は心ここに在らずの状態でボンヤリしていた。
エレベーターの前で交わした啓介との会話を、ただひたすら、頭の中で復誦していたのである。
この後、啓介は会ってくれるのか?
晴美は、そのことばかり、悶々と考えていた。※63へ
(写真は、城跡公園にみごとに咲いている花菖蒲。種類が171種あるということ)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年06月01日
唐津城と藤の花

※
啓介は、院長から ―マージャンのメンバー集まるかなあ― と、持ちかけられた時、胸にひっかかるものがあった。
決してマージャンをやりたくないというのではなかった。
ふっと晴美の顔がよぎったのである。
心のどこかで、晴美とプライベートの話が出来るのはこんな時ぐらいしかないと思って期待していたのかもしれない。田鶴子の束縛から離されてのびのび出来る時間は滅多にないからだ。
啓介は、もちろん、院長の申し出を断ろうとは全く思わなかった。
これでよかった、とむしろほっとした所もあったのだ。
宴会場を出た啓介は、トイレを済ませ、遊戯室に向かおうとエレベーターの前に立っていた。
すると、人の姿はなかったはずなのに、突然横にスーと晴美が寄ってきた。
「おや!川口さん、どうしたの?皆とカラオケ行かないの?」
「ええ、…行きます。…でも東元さんにちょっと用があって待ってたの、……あのおー、後で携帯に電話していいですか?マージャンが終ってからいいですから会いたいんです。会ってください」
思い詰めた、張り詰めた声だった。
晴美の胸の鼓動が聞えそうだった。
啓介は、晴美の気持ちが痛いほどよく分かっていたが、一方では、彼女の思い切った行動にちょっと驚いたのだ。 度肝を抜かれた感じだった。もちろん、勇気を振り絞って起こした行動だろう。
啓介にとっては、やはり嬉しいことだった。
「えっ、でもたぶん今晩徹夜になると思うよ」と、何気に応えた。
「そうですか。……でも、電話で話すだけでもいいです。かけてもいいですか?」
「……そうだなあ」
啓介は今にも泣き出しそうな晴美の顔を見ると、むげに断ることが出来なかった。大きく2回頷いてニッコリ笑った。
晴美は恥かしそうに、でも嬉しそうにニッコリ笑い返すと、きびすを返して階段の方へ立ち去っていった。※62へ
(写真は、この5月に撮ったもの)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月29日
栗の花

そこには、啓介がほんのり赤い顔をして立っていた。
両手を広げて晴美と矢部の肩に手を置き、2人の真ん中に座った。
「あっ、先輩すいません、さっき注ぎに行ったんですが、回りにたくさん人がいたもんで、どうも…」と言いながら矢部が盃を差し出すと、啓介も「どうもどうも」と言いながら、2人はお互いに酒を酌み交わした。
晴美は啓介が後輩の矢部に酒を注ぎにきたことは分かっていた。それでも側に来てくれたことに、じんわり嬉しさがこみあげてくるのを感じた。
何とか自分にもかまってもらいたい。そう思った晴美は
「東元さん、井上揚水歌わないんですか?歌ってくださいよ」と、とっさに話かけていた。
「えっ、ああー揚水ねぇ、そういえば去年は蒲田さんと歌ったなあ。彼、揚水の歌が好きだったもんなあ」
「私、東元さんの歌、聞きたいです」
「いつでも歌ってやるよ、でも今夜はダメ、もう誰も聞いてやしないし。……それにもうそろそろお開きじゃないかなあ?」
「そうだ、先輩、これからカラオケ行きましょうよ、ねぇ川口さんも行くだろう?」と矢部が時計を見ながら言った。
「俺ダメ、院長につかまっちゃったんだ。久しぶりにマージャンしたいんだって。先生たちもやるっていうから、2テーブルは出来るんじゃないかなあ」
「……という訳、残念だったねぇー、川口さん。でも俺らだけでも行こうぜ」
矢部は、また晴美の心を見透かしたように言う。
晴美は、啓介の言葉に実際がっかりしていたので、矢部の言うことはいちいち腹立たしい。
その時、幹事がお開きのコールをし、事務局長が一本締めの音頭をとった。※61へ
(写真は、栗林の中の1本の木の花。むせるような強烈な匂いが鼻につく。花じたいもグロテスクで綺麗だとは思えない)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月27日
虹の松原(唐津市)

舞台では、入れ替わり立ち替わり、出し物が披露された。
宴もたけなわになると、席を離れて酒を注いで回る人や、あちこち固まって話し込む人など、たちまち会場はまとまりがなくなり騒然としてきた。
もはや舞台に注目している人などいないのに、電気技師とボイラー技師の2人が、まるで練習でもするかのように、カラオケのマイクを取り合ってひっきりなしに歌っている。
晴美の周りもだんだん人が居なくなっていった。矢部はとっくりを持ってあちこち回っているようだ。斜め前の席で、かろうじてもくもくと食べている40代の看護師に、晴美は話しかけたりするが、すぐ話題は尽きる。
こうなると席を移動するしかないのか。
晴美はそれとなく会場を見回した。
啓介や秋津は、それぞれ楽しそうに飲んだり話したりしている。
何処へ行けばいいのか、晴美は何処へも行けず、居たたまれない気持ちで冷めた肉をつついていた。
そこへ、おもむろに矢部が戻ってきた。
「なんだ、川口さん1人で飲んでるの?ダメじゃない、注いで回らなきゃ」
「えっ、そうなの」
「うそ、うそ、さあ、これから2人でじっくり飲もう」
矢部はどっかと胡座をかいて座った。
「昨年の忘年会ではね、東元さんが蒲田さんとギター片手に井上揚水を歌ったんだよ、彼らハーモニーをつけて歌えるから、とてもいいんだあー」
「今年はやらなかったのねぇ、……東元さん、貴方と歌えばいいのに」
「俺、歌苦手だから……」
晴美は矢部が戻ってきたことにより、再び、場を保てたことにホッとし、慣れない手つきであったが、矢部に何回も酒を注いだ。
そんな時、「やあ、ご両人やってる?」と、後から不意に肩をたたかれ、晴美はハッとして後を振り返った。※60へ
(写真は、唐津城から撮った虹の松原。山と人家の間の緑が松林である)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月25日
鏡山(唐津市)

宴会は夜の6時半から行われた。総勢60名余りが旅館の大広間にお膳を前に、縦に2人向い合せで4列に並んだ様子は圧巻である。
バスの中にいた人数より多く感じるのは、院長が公用車で来たのを始め若干の人がマイカーを使用したからだろう。
男性人は早々と温泉につかったらしく、皆同じ浴衣に身を包んでいる。女性人も半分くらいは浴衣に着替えていた。さすがに晴美たち若い女性は、浴衣姿はくつろぎ過ぎで恥かしいと洋服のままであった。
院長の挨拶、乾杯の音頭で宴会は始まった。
晴美は、その間もずっと啓介が何処にいるのか気にかかり、彼の姿を探していた。その広い浴衣姿の背中は、晴美からは遥か彼方の席だった。しかも、晴美とは同じ方向を向いて座っているので、啓介が振り向かない限り顔を合わせることは出来ないのだ。
晴美は、楽しさがいきなり半減した気がした。席順はくじ引きだったのだ。
しかしそれにもかかわらず、晴美の右横には、何と矢部がニヤニヤして陣取っている。
「川口さんとは、縁があるんだね、こんなにたくさんいるのに、横に座れるんだから」と言いながらも、目はアチコチよその席を物色している様子である。
彼も、もしかしたら看護師の麻美の姿を探しているのだろうか。しかし、麻美の姿はバスの中でも見かけていない。彼女はきっとこの忘年会に参加していないのだろう、と晴美は思った
しかし、そのことには触れず、
「ホントね、よろしく」と応えた。仕方ない、覚悟を決めてこの席で楽しくやるしかない、そのためには矢部とも進んで話そうと、思ったのである。
左横は若い看護師、前はやはり年配の看護師である。矢部を除いて日頃あまり喋ったことがない人たちに囲まれていたが、珍しさも加わって、それなりに話は弾んだ。
それに、矢部はギャグを言って周りの人を笑わせるのが得意なのだ。自然にその場が明るくなり盛り上がる。
晴美は、横に気安く話せる矢部がいてくれて、ホントに助かったと思っていた。※59へ
(写真は、唐津城から撮った鏡山)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月23日
えんどう豆の花

病院では12月28日に、一旦仕事納めをする。
もちろん入院患者で自宅へ帰らない人もいるので、年末年始も医療部門は休むことは出来ない。ただし、勤務体制は縮小し特別編成されたものになる。
その28日、仕事納めをした後、病院恒例の職員全員での大忘年会が隣県の温泉旅館で催される。
その日に夜勤に当たった医師と看護師は、当然この忘年会には参加出来ないのだ。しかし、当直をかって出る人もいるくらいだから、それが問題になる様子もない。それに例年、看護師の中にはなぜか不参加者も多く、参加者は大型バス1台に十分乗れる人数に納まるのだ。
温泉旅館は、隣県といってもここ小川市からは高速で30分もあれば行ける所にある。
晴美はその温泉街には、子供の頃から家族と、ことある毎に訪れていた。元々温泉が大好きな上に、食事も地元の牛肉がとても美味しいので気に入っているのである。
今回、家族以外の仕事仲間と一緒ということや、そこで忘年会があることが、晴美は嬉しくてしようがなかった。まるで中学校時代の修学旅行のように心が弾んだ。
でもこれほどウキウキするホントの理由は、啓介が一緒だからだということを、晴美自身不安に思うほどよく分かっていたのである。※58へ
(写真は、近所の畑で撮ったもの)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月21日
街路樹―メタセコイヤ

晴美が4月にこの病院に勤め出してから、まだ1年も経っていないのに病院ではいろいろな出来事があった。病院はさながら社会の縮図で、日頃巷でも日常茶飯事繰り広げられていることかもしれない。
とはいえ、晴美にとっては急に大人になったような目まぐるしさだった。
レントゲン技師助手の矢部は、午後になり仕事が一段落すると、相変わらず、晴美の横に来てちょっかいを出してくる。
「この病院の職員はいったいどうなってるの?ねえ、川口さん、まともなのは俺らくらいだよなぁ」
「えっ!また、何かあったの?」
「何かって、森だよ、森」
「看護師の……」
「そう」
「森さんがどうかした?」
「まあ、たいしたことじゃないんだけどさ、……森、最近テニスさぼってばっかいるんだ。彼女が付き合っている男、フリーターっていう奴で、家にしょっちゅういるらしいんだ、TVゲームばかりして」
「同棲しているの?」
「うん、……それはいいんだけど、森、そいつに振り回されているんだよ。ヒモのくせにやきもち焼きときているし、暴力も振るうらしいから、テニスやってる場合じゃないって言うんだ」
「本人がそう言ったの?」
「あいつ、何も言わないけど俺分かっちゃうんだ!最近、化粧もしてないだろう?」
「あら、そうだった?……森さん綺麗だから化粧しなくても全然変わらないけど」
「まあな、おまえとは違うからな。でも、女も化粧しなくなったらおしまいだよ」
「どうせ私は化粧しないと見られませんよだ。……ふうーん、矢部さん森さんのこと好きなんだ」
矢部は、えへへそんなことないって、と笑いながら立ち去っていった。※57へ
(写真は、運動公園前の街路樹。この間まで枯れ木どうぜんの裸の木が、いつの間にか若葉が青々と茂り生まれ変わった。高さは10mはある。秋の紅葉が1番きれい)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月19日
フロントガラス越しの景色

「長谷屋さん、彼女を訪ねるのに絶好のチャンスだと思ったんですな、退院したらその彼女ともしばらくは会えんでしょうから」
「それで、入院中にもかかわらず会いに行ったんですか。……奥さんは愛人がいたことや、その人がしょっちゅうお見舞いに来ていたこと、ご存知なかったんでしょうか」と、晴美が不思議がると、
「奥さん、何も知らなかったんですって、奥さんは昼間看護に来ても夕方は帰るでしょ、女先生は学校が終って、夕方来てたらしいから」と秋津が、口をすぼめたり、目をクルクル動かしたりしながら説明した。
ところで、さっきのことだけど、と加藤が身を乗り出した。
「私、長谷屋さん、天罰だとは思わないです。むしろ少し羨ましいですな」
「えっ、なぜですか?」と晴美はけげんな顔で加藤を見た。
「だってそうでしょ、人間はいつかは死ぬんですよ。ガンで苦しんで死ぬ人もいるし、交通事故で死ぬ人もいるし、老衰でボケて死ぬ人もいますしね。それだったら、好きな女性の上で快感の頂点で死ねるのは、男の本望というものですよ」
「ええーっ!」と秋津と晴美は思わず同時に声を発していた。声高になりあわてて周りを見回した。
始業前の事務室はざわざわしていたせいもあり、3人の話の内容に誰も気がついていない。
それでも晴美はちょっと声を落とした。
「いやらしい加藤さん。……でも、家族に、特に子供さんに恥ずかしいとは思わないですか?それに世間にも」
「だって、死んでしまえばそんなこと思わんでしょう、本人はそこでジ・エンドですからね。後のことはどうでもいいですよ」
「へえー、そうなんですかぁー……、男の人ってそういう風に考えるんですかぁー」
「他人は知りません、僕は、ですよ……」※56へ
(写真は、車に乗っていてあまりに、前がきれいだったので撮ったもの。花はキンセンカ)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
2006年05月17日
図書館

「あるんだよ、年取るとね、男は無理するんだ。長谷屋さんて何歳でしたっけ?……たしか私と一緒ぐらいじゃないですか?」
「長谷屋さん59歳ですよ、それに中学校の先生」と秋津が間髪を入れず応えた。
「女性は何歳?」
「40歳代で、未亡人。やっぱ先生ですって。見舞いにも頻繁に来てたらしいし」
「……女性が若いと男はやっぱ無理するんだよね、分かるよ」
「でも、愛人さん、突然そんなことになって困ったでしょう?……それでどうしたんですか?」晴美は、状況を想像していた。
「それが、普通は救急車を呼ぶでしょう?でも、その女先生まず自宅の奥さんに電話したらしいの。それから大変だったのよ」
病院の近くに自宅がある秋津は、朝早くから呼び出されたらしく、とても疲れた様子だった。にもかかわらず、話し始めたらからには仕方ないというように、主治医の市原が長谷屋の妻から連絡を受け、直ちに現場に駆けつけ、死亡確認をしたこと、その後、遺体は内々に自宅へ運ばれたことなどを、こと細かに話してくれたのだった。
救急車を呼ぶと、変死ということで警察が捜査に入り公になっただろう。しかも、教師同士ということが、世間の非難の目にさらされる。家族もかわいそうだということで、市原は夜中にも関わらず、骨を折ったらしい。
晴美は、そんなことになるなんて、不倫なんかするからですよね、天罰よ、と憤りを押さえきれず、加藤と秋津にも、そうでしょう?と念を押した。
2人がどんなに感じているのか知りたかったのだ。
晴美にとってはあまりにも刺激的な許せない事件だった。
秋津の方は、そうよ、と自分まで借り出されたことも、さも迷惑と言うような顔をした。
ところが加藤は、意味ありげに、ニヤッと笑った。※55へ
(写真は、私が行く図書館。プールも同じ敷地にあるので週1回は行くところ)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)