2006年05月15日

歩道の花壇


遊歩道.jpg※53
 暮も押し詰まった12月末、いつものように出勤した晴美は、事務所内がザワザワとしているのが気になった。
 また、何か起きたのかと、早々と机に座って書き物をしていた秋津に、
「何かあったのですか?」と聞いてみた。
「ああー」と手を休めた秋津は、はっきりした二重まぶたの大きな目をますます大きく見開き、首をグルグル廻した。
 朝から、肩がこっているのだろうか。
「昨日の深夜、いえ、今日未明かな、入院患者の長谷屋さんが亡くなったのよ」と、空ろな表情だ。
「えっ!あの肺炎で入院していた人ですか?」
「そう」
「でもあの方、たしか金曜日に、明日ですよね、退院て聞いていましたけど」
「そう、そうだったのよ。それなのに、昨日外泊許可もらって外出したらしいの。ところが、彼、愛人の所へ行ったらしいのよ。そこで深夜こともあろうに腹上死したんですって」
「……腹上死って?」
 そこへ何時の間に来たのか、検査技師の加藤が、ニヤッと笑って話の中に入ってきた。
 加藤は病院に2人いる臨床検査技師の1人で年齢は55才位。鼻の頭に欠陥が浮き出ているのが、お酒好きを実証している。
「川口さん、まだ男女のこと何も知らないんだね、腹上死っていうのはねぇ、男女の行為の最中に男性が女性の腹の上でそのまま心臓が止まってしまうことなんだよ」と、とくとくとして話してくれた。
「ええーっ、そんなことってあるんですか?」
 晴美は大袈裟と思えるほど驚いた。実際、胸がドキドキするほどびっくりしたのだ。それに、亡くなったという話は厳粛に聞かなければならないのに、晴美にはなぜか恥かしい破廉恥な話に聞こえてしまったのである。※54へ

(写真は、毎週プールに行く道路脇の歩道の花)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)

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2006年05月13日

B牡丹


B牡丹.jpg※52
      ※
 晴美は、人事課長から、来年の4月には市役所に呼び戻してやる、と言われた時の状況を、時折反復してみる。半信半疑というのがホントの気持ちである。
 気に留めてもらったことは事実。しかし、期待して、叶わなかったらショックだ。
 だから、そんなことがあったことは、両親にも告げず、晴美は自分の心の中にそっとしまっている。
 ただ、それからというもの、頑張ろうという気持ちが自然と湧いてきて、晴美の気持ちは何となくウキウキしていた。

 もし夢が叶い、この病院とおさらばする時がくれば、啓介とは無縁になる。ホッとするようでも、寂しいようでもある。
 啓介とは、病院内で相変わらず毎日会っている。会えばニコニコと笑って挨拶を交わし、仕事上の事務連絡や取り止めのない話は、何の変わりもなく続いている。
 そんな一瞬一瞬に、ホンワカと温かい気持ちが全身を包むのは、どうしても禁じえない晴美だった。※53へ

(写真は、図書館玄関の牡丹。シャクヤクとの大きな違いは牡丹は木で、シャクヤクは草であることだそうだ)
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2006年05月11日

A牡丹


A牡丹.jpg※51
 啓介は、田鶴子もまた、蒲田と慶子の失踪のことで、心を痛めていることは分かっていた。
 啓介と同じように、テニスを通して、2人とは仲良くしていたのだ。
「蒲田さんがあんな人とは知らなかったよ、啓介は私を裏切ることはしないよね」と、事ある毎に念をおすようになった。
 俺を信用しろよ、と応えるしかない。事実、蒲田のような生き方はまっぴらだと、啓介は思っているのだ。
 とは言え、一方では晴美が好きでたまらない。この感情はどうすることも出来なかった。
 しかし、1人を選ばなければいけないルールがある限り、晴美を諦めざるをえないのだ。
 晴美とは出会うのが遅すぎた。田鶴子より早く出会っていたら、確実に結ばれているだろう、と啓介は最近、そんなことばかり思っている。
 
 海水浴以後、晴美は、自分に近寄ってくることは決してしないが、声をかければいつでも手が届く位置にいる、 自惚れかもしれないが、啓介はそんな自信があった。
 それが分かっているので、近寄れずにいるのが返っていいのだと、今は思っている。
 晴美のためにも大人の自分が身を引いていなければならないのだ。
 職場では仕事仲間として、プライベートの時間が持てたら、常に兄のような気持ちに徹するしかないと、啓介は既に、心に深く決めたことだった。※52へ

(写真は、図書館玄関に咲いていた牡丹)
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2006年05月09日

街路樹とつつじ


街路樹とつつじ.jpg※50
      ※
 啓介は、今さらながら女性の恐さを、思い知らされていた。
 慶子が蒲田を慕っていたのは、日頃のそぶりで分かっていた。
 自分が男だから思うのだろうか?
 蒲田の方はそこまで慶子を好きだったとは、どうしても思えないのだ。
 慶子が妊娠でもして、生きるの死ぬの、の痴話喧嘩があったとすれば納得出来ることである。
 蒲田は、慶子のために自分の人生を捨てたのだ。そうとしか考えられなかった。
 思えば、慶子が炎のような強い性格だったことを、啓介は知っていたような気がする。
 見た目は控えめで、口数の少ない優しい女だった。
 ところが、慶子には、テニスをしている時垣間見せる、どんなに打ち込まれてもひるまない、負けず嫌いな強い一面があったのだ。

 1回り以上も年齢差があったが、啓介にとっては、蒲田は、人生のいい先輩であり、遊び仲間でもあった。自宅に呼ばれて飲んだこともある。その時は、夫婦仲もうまくいっているように見えた。何より子供たちは、父親を慕っていたし、尊敬していた。
 自分にまとわり着く子供たちを、蒲田は嬉しそうに優しく見守っていた。
 
 2人の失踪以来、啓介は度々蒲田家を訪ね、子供たちの世話をしたり、彼らを探すことを手伝ったりしていた。そして残された家族の悲しみと苦悩を、イヤでも目の当たりした。胸がえぐられるようだった。
 啓介が、彼らと一緒に、休み毎にテニスをしていたことも周知のことだった。その上、彼らと一緒に何回も飲みに行ったこともある。
 蒲田の妻は、2人の関係を、啓介が知らなかったはずはないと思っているだろう。
 啓介は、自問自答してみる。
―俺は知っていたのか。もし、知っていたら止めることが出来たのか―
―知っていたような気もする。でも、蒲田がそんなバカなまねをするとは思っていなかった。どうせ遊びだろうと思っていたから、かかわりたくなかった。それがいけないのか―
 俺に何が出来たというのだ、恐い女に近づいた蒲田が全て悪いのだ、と思うしかなかった。
 それにしても、
 蒲田はホントに慶子の肉体に溺れたのだろうか?
 肉体に溺れるということは、いったい、どういうことだろう?
 そんなことが、あり得るのだろうか?
 ただ、惰性に流されているうちに、自暴自棄になったのだ。現実から逃れたかったのだ。ずるい、としか言いようがない。
 これは、家庭人として社会人として許されることではない。
 蒲田は、何時の日か、天から罰が下るだろう。
 啓介のわだかまりも、当分消えそうになかった。※51へ

(写真は、若葉の街路樹と色鮮やかなつつじのコラボレーション)
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2006年05月06日

SSKドック


SSKドック.jpg※49
「お久しぶりです。川口晴美です」と、声をかけていた。
「えっ、何処かでお会いしてましたか?」
「ああ、いえ、昨年面接試験で…」
 人事課長は、晴美の顔を、右手を頬に当て左手は右手の肘を押さえ、シゲシゲと見つめていたが、ハッと目を見開いた。
「ああー、思い出しましたよ、確か英検1級をお持ちだった人ですね」
 嬉しかった。
 自分が1番の自慢だったことをちゃんと覚えてくれていたことに、晴美は思わず涙が出そうだった。
 人事課長はとても上品なロマンスグレーだった。
 眼鏡の奥の目はとても優しく、晴美はまるで自分の保護者のように親しみを感じたのである。
「どうですか?仕事は慣れましたか?」
「はい、どうにか……」
「どんな仕事をしているの?」
「受付です」
「そうですか?……英会話が生かされる仕事がしたかったんですよねぇ」
「実はそうだったんですけど……」
「ここが欠員だったので廻されたのでしょう」
「ええ、それに実家が近かったこともあるかもしれません」
「ご実家はどこなの?」
「鶴崎町です」
「なるほど……、分かりました、来年4月の異動で、希望が叶うように考えておきますよ」
 晴美はまさかこんな展開になるとは夢にも思わないことだった。
「えっ!ほんとうですか?」
「ええ、それまでしっかり頑張って下さい」※50へ

(写真は、バスの中から撮ったSSKドックの一部)
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2006年05月03日

お茶畑と風車


茶畑.jpg※48
 会議室には、会議用長机の4個を1固まりとしてテーブルが作られ、それが4セット設置されていた。
 テーブルの上には出前のお寿司やオードブルの鉢盛り、それにビールやジュースなどの飲み物が用意されていた。
 晴美にとっては、飲食をしながら意見交歓会をするというのはもちろん初めての経験だった。いったいどんなことをするのだろうと、とても興味があった。
 しかし、始まってみると何ということはなかった。
 初めに幹部職員の自己紹介がちょっとあったものの、その後は幹部職員が各テーブルに2〜3人ずつ付き、病院職員とただ歓談するだけというものだった。白衣のままの看護師も何名もいる。
 晴美のテーブルには、人事課長と、病院側から事務局長が配置された。たまたま、晴美は人事課長の隣の席になった。
 晴美は、人事課長の顔をよく覚えていた。
 昨年市の採用試験を受けた際の、面接試験官だったのだ。
 不思議なことに、晴美はふっと恩師に会ったような懐かしさを感じたのである。※49へ

(写真は、茶畑と風車。風車は霜除けとのこと)
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2006年05月01日

相浦火力発電所


相浦火力発電所.jpg※47
 11月になっても12月になっても2人から何も連絡はなかった。
 薬局には臨時の薬剤師が配置されていたので、もう誰も2人の噂もしなくなっていた。
 既にそのころは、蒲田も慶子も退職になっていた。
 11月末、時々、蒲田の妻が事務所に顔を見せていたのは、退職の事務手続きをしていたのだろう。
 彼女は、昼間スーパーのレジで働いているとのこと。しかし、それで親子4人は暮らしていけず、鹿児島で薬屋を営んでいる蒲田の実家から援助を受けているらしかった。

 啓介と、矢部は大事な仕事仲間と、テニス仲間を同時に無くしてしまい、しょんぼりしているようだった。すっかりテニスは休止状態だと、矢部がこぼしていた。それは、啓介が、休みの度に蒲田の子供たちを元気づけに、子供たちの元へ行っているからだと、晴美は小耳に挟んでいた。

 暮も押し詰まったある日、市役所の幹部、総務部長、人事課長、保健部長、病院課長一行が病院を訪れた。
 秋津が、何年に1回か市の幹部職員が視察に回るもので、顔見せ行事のようなものだと晴美に教えてくれた。
 その日は、業務終了後、職員も会議室に集まり、幹部職員を交えて簡単な食事会が催された。
 それは、日頃行えない意見交歓会の場でもあったのだ。※48へ

(写真は、長崎県に3ヵ所{他に松浦、松島}ある火力発電所の1つ。意外と街中にあったので驚き。でも最初発電所があり、後で人家が増えたのだろう)
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2006年04月29日

明日を開く創造の乙女


明日を開く創造の乙女.jpg※46
 ある日の午後、蒲田の妻が子供3人を連れて、病院の事務室に挨拶に現れた。
 小学校6年生を頭に3人の男の子は、両親に似て一際可愛らしく聡明な顔をしていた。しかも、剣道を習っているというだけあって、とても礼儀正しいのだ。それがいじらしく見え、さらに大人たちの涙を誘った。
 
 ―蒲田さんて、何て馬鹿なの?こんなにかわいい子が3人もいるというのに、しかも、慶子さんに勝るとも劣らない美人の奥様なのに―
 ―きっと、慶子さんの色香に誘惑されたのよ。そういえば慶子さんは足首がきゅっとしまっていたし、立派なバストとヒップ、腰は細かったしねぇ―
 ―でもあんなに大人しくて虫も殺さぬ顔をしてたのに、恐いわねぇ― 
 というのが、病院内の職員大方の見解だった。
 晴美もほぼ同じ意見だったが、蒲田の優柔不断さが1番罪なことだと、彼の誰に対しても見せる優しい物腰を思い出していた。

 3人の子供たちは、たまたま事務室に入ってきた啓介を見るなり、「あっ、東元のお兄ちゃん!」と言って、啓介に飛びついてきた。
 啓介は一瞬照れくさそうにしていたが、すぐに子供たちの肩を、両脇に優しく引き寄せた。
 そして、きまり悪そうに「こんにちは」と蒲田の妻に頭を下げた。
 きっと、家族ぐるみの付き合いをしているのだろう。
 啓介が2人の仲を知らなかったはずはない。
 彼は、蒲田の暴走を止め得なかったことに対して、この家族に、少なからず申訳ない気持ちを持っているに違いない。
 晴美はそう思いながら傍観していた。※47へ

(写真は、運動公園競技場の正面玄関に設置されているもの。北村西望作)
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2006年04月27日

躍動する乙女


春に跳ねる乙女.jpg※45
 それから1週間位、病院の職員の間では、蒲田と慶子の駆け落ち事件の話題で持ちきりだった。
 特に薬局では、人手不足ですぐに支障をきたしていた。 市役所の保健部からは、早速、この不祥事に眉をひそめて調査を開始した。院長を始め、薬局長、事務局長達は、連日対策に頭を悩ませている状態だった。
 慶子の家はお寺だった。厳格な住職の父親は、蒲田に対してカンカンに怒っていたが、何しろ当の本人は娘と失踪中なので、怒りの鉾先を何処へ向けていいのか分からず、誰にも会わないという。
 人の噂では、娘可愛さに、ほんとは裏で手助けをしているのではないかという、実しやかな話も伝わっていた。

 それにひきかえ、蒲田の妻は可哀想だった。
 このまま帰って来なかったら、有給休暇を使い切った時点で、退職に追いやられることになるのだ。40歳そこそこの蒲田は退職金も微々たるものだという。小さな男の子3人を抱えて、明日から、生活に困るのだ。※46へ

(写真は、彫刻家北村西望の作品)
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2006年04月25日

米軍基地の正面入口


米軍基地正面入口.jpg※44
 佳代は、出産を終えたものの、引き続き育児休暇に入った。1年間は職場に復帰することはない。晴美はそれを知りがっかりしていた。まだまだ、佳代からは教わりたいことばかりだったからだ。
 晴美は、これといって習い事をするでもなく、ただ家と職場を往復するだけのたんたんとした、寂しい毎日を過ごしていた。

 そんな10月のある朝、いつもの時間に出勤した晴美は、事務室に入った瞬間、ただならぬ部屋の空気を感じ取った。
 いつもは始業時ぎりぎりにしか出勤しない事務局長がすでに、応接ソファーに座っている。
 その前に、遠目にも美人と分かるスラリとしたご婦人が沈痛な面持ちで座っていた。
 課長、係長も神妙な顔で事務局長の横に座り、ひそひそと話をしている。
 何かのっぴきならぬ問題が持ち上がっていることが、その様子を見ただけで、晴美にも察しがついた。

 応接台には書類や、出勤簿が雑然と置いてあるが、お茶がまだ出ていない。
 職員に出す前にお客さんにもお茶を出すべきだろう、と晴美は、手早くお茶の準備をした。
 そこへ、机の上の雑巾がけをしていた秋津が、晴美の側へ近づいてきた。
「大変なことが起きたのよ」
「えっ、ホントですか、何が…」
「あなた、知ってた?薬局の蒲田さんと慶子さんが昨日、一昨日とお休みだったこと」
「ええ、何か薬局で、2人一緒に休まれると困るとは言ってたようだけど」
「それがねぇ、あの2人出来てたらしいのよ。それでこともあろうに駆け落ちしたらしいの」
 演芸祭以来、2人の仲が怪しいのではないかと、晴美も薄々は感じていたが、まさか駆け落ちまで発展するとは思ってもいなかった。
 ショックで足が震えるほどだった。
「……あの方、蒲田さんの奥様?」
「そういうわけ」
「でもまだ、家出して2日目でしょう?そんなに大げさにしない方が…ねえ」
 「それが…、書き置きがあったらしいよ。申し訳ないが探さないでくれって」
「そうなんですか、……何それって感じですよね」
 晴美は、言い知れぬ憤りがこみあげてくるのを感じていた。※45へ

(写真は、米国海軍佐世保基地正面入口。黄金色の鳥居と旧日本海軍の旭日旗を表した看板と、後は錨)
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2006年04月23日

久留米つつじB


久留米つつじB.jpg※43
 蒲田が気の毒だった。
 前もって伴奏と合わせることもしていなかったのではないだろうか?
 伴奏の方が目立っていたし、演奏だけで十分だった。歌を付けるなら啓介とピアノ奏者の2人だけのハーモニーでよかったのでは、と思ったほどだった。
 観客全てがそう思ったに違いない。
 ただ管理部の出し物ということで、管理部代表の蒲田がメインでなければならなかったのだ。
 横に座っている慶子はどう思っているのだろうか?
 晴美は慶子に
「ねえ、蒲田さん相当上がってらっしゃいますよねえ、普段はもっとお上手なんでしょう?」と聞いてみた。
 誰よりもうっとり聴き入っていた慶子は、晴美のことばを聞いていなかった。
「ステキだわぁー、蒲田さんがこんなに上手だとは思わなかったわぁ」と、両手を胸に当て本当に、感激しているのである。
「えっ!蒲田さん、上手って!上がってらっしゃるじゃないですか?」と言っても、
「ううん、そんなことはないわ、ステキだわぁー」としきりに褒めまくるだけなのだ。
 晴美は、どう考えても慶子の蒲田に対する思い込みは変だと思った。
 蒲田たちの番が終わり、幕が下りた。
 すると、慶子は
「控え室に行ってみましょうよ、感激だわぁ」と言い終わらないうちに、晴美のことは無視して1人でさっさと、控え室の方へ歩いていった。慶子は全く1人の世界で、それはまるで夢遊病者のようだった。
 蒲田本人に、賞賛のことばを言うために行ったのだろう。
 晴美はその時、もしかすると慶子は、蒲田のことを好きなのかもしれない、と思ったのだった。※44へ

(写真は、天国があるとするとこんな所かな、と思うほど別世界を感じさせた花の中)
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2006年04月21日

色とりどりの久留米つつじ


色とりどりの久留米つつじ.jpg※42
 もともと看護師は、芸事が達者な人達ばかりである。
 職員演芸祭は、彼女達が趣味として習練している、日本舞踊、フラダンス、社交ダンス、コーラス、カラオケ等の日頃の練習成果を発表する絶好の場だともいえるのだ。
 どの演目をとっても、びっくりするほど上手かった。
 忙しい業務に明け暮れながらも、看護師が、これほどパワフルな活動をしていることに、晴美は羨望と驚きを隠しえなかった。
 患者たちも、うっとりとし、ほんとうに楽しそうに見入っていた。

 女性出演者が多いプログラム中で、管理部蒲田の歌は、男性ということもあり、誰もが注目していた。
 曲目はオフコースの“さよなら”という‘70年代のヒット曲である。古い曲とはいえ晴美もラジオ等で何度も聞いたことがあった。聞くたびに心に響き、とても好きな曲だった。

 蒲田たちの歌は、趣向をこらしたものだった。
 病院にピアノがあったことも晴美は知らないことだったが、幕が開くとピアノがデーンと置いてあり、応援として参加しているのか、出だしが、啓介の音楽仲間のピアノソロから始まった。
 聴きなれた曲の生演奏は、鳥肌がたつほど、心を打つものだった。そこに啓介のギターが加わり、メインの蒲田の歌、そしてピアノ奏者、ギター奏者の啓介たち2人がハーモニーを付けた。
 ところが、しばらく歌った所で蒲田のメロディーの声が聞えなくなった。歌詞もスムーズに出てこない。あわてて歌ったまではよかったが、今度は音程が外れている。
 蒲田は、緊張のあまり完全にパニックに陥ったのだ。
 選曲は蒲田がしたと慶子が言っていたところをみると、練習不足としかいいようのない出来の悪さだった……、と晴美は正直思ったのである。※43へ

(写真は、長串山の久留米つつじの一部)
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2006年04月19日

石橋のある風景


橋のある風景.jpg※41
 9月末の土曜の午後、病院では恒例の職員演芸祭が開かれた。晴美にとっては初めて体験する行事だった。
 個人で芸を発表する人、診療科毎のグループで出し物を披露する人達、比較的元気な入院患者さんの、飛び入り参加もあったりした。
 晴美は、得意な芸が無いからという訳ではないが、もともと、人前に出て何かをするというタイプではない。ただ、見るのは大好きだった。
 病院の主のような秋津から、この演芸祭の薀蓄をいろいろ聞かされるのはうんざりだったので、晴美は、会場でしきりに彼女から手招きされても、あえて大人しそうな薬局の慶子の隣に座った。
 管理部門からの出し物として、薬剤師の蒲田がフォークソングをソロで歌うことになっていた。そのギター伴奏を啓介が買って出るとのことだった。

 蒲田と慶子は仕事も薬剤師とその補助、テニスではダブルスを組んでいる間柄である。長年一緒に行動している慶子なら、きっと蒲田がこの舞台で歌うことに関心を持ち、蒲田の歌も聞いたことがあるかもしれない。
 そう思った晴美は、蒲田がいったいどれくらいの歌唱力があるのか聞いてみたい気がした。
「蒲田さんて、そんなに歌が上手いんですか?」
「ええー、それはもう……、それに東元さんのギターはプロ並みよ、だから大丈夫!入賞間違いないわ。貴方も応援してね」
 「へえー、…分かりました。ソロで自ら歌われるくらいですもの、上手いに決ってますよね」
「ええ、もちろんそうよ、……上手くいくと良いのだけど、……ドキドキするわ」
 慶子は自分のことのようにソワソワ落ち着かない様子で興奮していた。
 その慶子の様子が、晴美にはちょっと異様に感じられたが、彼女はきっと見かけによらず、感受性が強い人なのだ、と何となくその時は納得したのである。
 それに晴美は ―自分だって、啓介のギター演奏を聞けることを、こんなにワクワクした気持ちで待っているんだもの― と思ったからだ。※42へ

(写真は、日曜日に随筆の会が開かれた会場近くで撮ったもの)
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2006年04月17日

縞小紋と桐下駄


ネ小紋3連.jpg※40
 2人で海水浴をした日、晴美は、啓介に恋をし、啓介も晴美を恋人のように扱ってくれたと思った。
 しかし、その日以後、啓介からは何のコンタクトもなかった。毎日毎日メールをチェックしたが、何の音沙汰もなかった。
 職場では毎日顔を合わせ、仕事のことは普通に話をしている。
 あの海水浴での楽しかった時間は、本当は、夢の中の出来事ではなかったのかと思うほど、啓介はそ知らぬ顔をしていたし、別人と思うほど冷静で普通どおりだった。
 晴美は初恋と失恋を一瞬の内に経験したのだと思わざるを得なかった。

 もともと、啓介にはれっきとした恋人がいるのは事実である。楽しいことの後には苦しいことが待っている、というのも分かって、海水浴に行ったことだった。
 それなのに、その日だけの連絡用として携帯に登録した、啓兄チャンとしての番号を、なかなか消すことが出来ない晴美だった。

 そんな辛い精神状態のまま、月日は過ぎて行き、やがて佳代が無事男の子を出産したと連絡が入った。いつの間にか9月になっていたのだ。
 失恋には時間が薬という。晴美もだんだん元気を取り戻していた。
 今では、啓介とのことは、青春の1ページとして夏の思い出にしようと、決心がついていた。※41へ

(写真は、昨日、随筆の会に出席した時着た、縮緬縞小紋と、新しく購入した下駄)
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2006年04月15日

らんらんバス


らんらんバス.jpg※39
 晴美は啓介と2人だけの海水浴がどんなものになるか、一方ではとても不安だった。2人でどんな会話をするのか、海で2人だけで果たしてどんな楽しみ方があるのか、ただ、泳いでいるだけで楽しいのか、見当がつかなかった。
 しかし、その不安はすぐ吹っ飛んだ。
 2人で海へ入り、水をかけ合うだけで、可笑しくてたまらなかった。口が閉まらないほど笑い続けた。
 何でもないことがどうしてこんなに可笑しいのだろう。 不思議だった。
 啓介はビーチボールを持ってきていた。
 晴美を迎えにくる前に街で買ってきたという。
 海の中で2人がバレーボールを始めると、周りにいた子供たちが次々に寄ってきた。たちまち10人くらいの輪が出来た。そのうちに2組に別れてゲームをしようということになった。子供たちと一緒になり、真剣に遊びに興じている啓介は、いつもの落ち着いた大人の男性ではなく、少年のようにあどけなく目が輝いていた。
 晴美は啓介の新鮮な一面を見て、ますます好きになっていくのを感じていた。

 2人はその日、時の経つのも忘れて、心から楽しんだのである。
 最後に一泳ぎしようということになり、2人は少し沖まで出た。
 そこで仲良く並んで1000メートル程、クロールをした。
 午後6時のチャイムがどこからともなく聞えてきた。
 町内放送だろう。子供たちも帰り出した。
 何時の間に置いたのか、啓介が日陰から、仕出し弁当とお茶を岩場へ持ってきて広げた。
 「お腹空いたろう?夕食までの繋ぎだ、食べよう」と言った。
 ビーチボールと一緒に、街で調達してきたとのことだった。
 晴美が、お腹空いたなあ、と思ったところだった。
 啓介のフットワークのよさに、ただ恐縮するだけだった。
 そして、田鶴子に対して、「今日半日本当にありがとう」と、心の中でお礼を言った。
 啓介に優しくされる度に、彼女に申訳ないとチクチク胸が痛むのを、禁じえなかったのである。※40へ

(写真は、今日、働いていた頃の職場の友人と食事会に行った際、乗った市内らんらんバス。何処まで乗っても百円均一。観光地巡り用)
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2006年04月13日

家中花だらけ


家中花だらけ.jpg※38
 団地内のだらだら坂道を下っていくと国道に出る。そしてその角に屋根がついたバス停がある。
 晴美は、そのバス停で啓介が迎えに来るのを待った。
 啓介が、南の小川市中心方角から来るのか、北の啓介の自宅方角から来るのか分からなかった。車の色も車種も聞いていなかった。携帯電話に連絡がないということは、啓介はきっと迎えにくるはずである。
 腕時計を見るとそろそろ4時になるところだった。
 その時、南の方から走ってきた紺色のスカイラインが団地の入口に右折して入り込み、停車した。
 時間通りに啓介が迎えに来たのだ。
「やあ、待ってたの?暑かったでしょう?家にいてよかったのに」と、車から啓介が笑顔で降りてきた。
「待ちきれなくて……」と晴美は、自分でも驚くほど素直に応えた。
「ごめん、さあどうぞ」と助手席のドアを開けて、啓介は慣れた手つきで晴美をエスコートした。
 真っ白いポロシャツとブルーのジーパンの啓介は、テニスの時に被っていたつばのついた白い帽子がよく似合っていた。
 晴美は夢見心地だった。好きな男性と彼の運転するスマートな車で、しかも2人だけで海へ泳ぎに行けるなんて、思ってもみなかったことだ。夢なら覚めないで欲しいと願った。39へ

(花束として頂いた花は飾る所がないので、バケツに入れてそのまま楽しむ)
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2006年04月11日

ソメイヨシノと山桜のコラボレーション


メイヨシノ.jpg※37
 晴美は午後4時という時刻が、どれだけ中途半端なものか思い知らされていた。
 午後から時間を潰すのにいろいろなことをやった。何度も鏡の前で髪を直した。メークを直した。新聞を読んだ。パソコンを開け、ホームページをあちこち覗いた。そのうちにだんだん気持ちがブルーになっていくのを感じていた。楽しいはずのデートがだんだん気が重くなっていく。
 3時半を過ぎると、待ちきれなくなった晴美は出かける決心をして、とうとう表へ出た。
 クーラーの効いた部屋から、1歩外へ出ると、 雲1つない青空と、ジリジリと照りつける太陽で、眼前の世界は地面から湯気が出るほどの暑さだった。
 白いレースの日傘、白いサンダル、白いエナメルのバッグに薄いブルーのノースリーブワンピースというコスチュームの晴美は、炎天下の下でも十分輝いている。
 晴美は自分の容姿に全く自信はなかったが、肌が白いのだけは自慢だった。だから、肌を見せる夏の季節が嫌いではなかった。
 職場には、たいていズボンかスーツを着用している晴美は、今日のワンピース姿を啓介に見せるのも、楽しみの1つだった。

 幸いなことに、晴美の住む鶴崎団地内は静まりかえっていた。夏休みなのに子供の姿もない。今の子供たちはクーラーが効いた部屋でゲームするのが主流なのかもしれない。
 晴美は小高い丘になっている団地から、誰に会うこともなく坂道を降りて国道へと歩いていった。国道で啓介を待とうと思ったのだ。啓介は車で迎えに来ることになっている。※38へ

(写真は、山の側面に白いソメイヨシノとピンクの山桜が重なるように咲いていたもの。遠くから見ると濃淡のあるピンク色のクレヨンを横に塗りたくったような素朴な美しさだった)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)

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2006年04月09日

鳥居と桜


鳥居と桜.jpg※36
 啓介は、晴美を晴美の家の木戸先まで送った。
 別れ際に、
「君の携帯貸して」と言って晴美から携帯を受け取り、自分の携帯番号を登録した。そこから、自分の携帯に電話を入れ、晴美の番号を自分の携帯に登録した。
「これでよし。何か急用があって来られない時とかの連絡用だから」と言った。
 晴美は、手際よい啓介の作業を、息を飲んで見守っていた。
「…ハ、ハイ、分かりました」と、言って携帯を受け取った。何となく2人の間が狭まった気がして晴美は嬉しかった。

 自分の部屋に着き、改めて携帯を開けてみると、友人のグループに啓兄チャンで登録されている。晴美は、現実に戻されたようで複雑な思いがしたが、なるほどと思ったのである。
 ―東元さんの携帯には、私は妹で登録されているのだろうか―晴美は可笑しくなった。

 晴美は、テニスには全く興味がなかったが、水泳は、小学生の頃水泳教室へ通ったこともあり、得意の分野だった。
 この2〜3年海で泳いだことはないが、母親が健康のために1年を通して温水プールへ通っているのに、時々お供しているので、ちゃんと水着も2〜3枚は持っている。
 セパレーツで、水着といっても、街で着てもおかしくないような肌の露出度の少ないものを明日のために選んだ。黒地で、ローズ色のチェック模様の上着と黒のショートパンツは晴美のお気に入りだった。
 晴美は、試着し、鏡の前で1人で頷き、それを海浜用のバッグに入れ、明日の準備をした。
―明日は、何も考えずに思い切り楽しもうー と心に決めていた。
 その夜、晴美は胸がワクワクしてなかなか眠りに付けなかった。※37へ

(写真は、城跡公園内で撮ったもの)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)

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2006年04月07日

城跡公園の桜


城跡公園の桜.jpg※35
 晴美は話すことばが何も見つからなかったが、2人で並んで座っているだけでとても幸せだった。2人でいて1人の世界になれるのもまんざらではない。
 ―こんなに夕焼けが綺麗ということは明日もきっと晴れるだろう。
 啓介に誘われるままに、ここへ泳ぎにきていいのだろうか?啓介は明らかに暇つぶしに私を誘っている。私もたまたま暇なら、一緒に楽しんで悪いことはない。女友達と思えばいいのだ。
 ううん、もしかして、私、騙されているんじゃ…?でも騙されるって、お金をむしり取られたり、身体を持て遊ばれたりすることでしょう?
 東元さんに限ってそんなことはないから、それはないし……―
 啓介が「そろそろ時間だ、帰ろうか」と言って立ち上がるまで、晴美は、横に啓介がいるのを忘れて、そんなことをあれこれ考えていた。
 そういえば、啓介はいったい何を考えて夕陽を見ていたのだろう、と晴美はふと思った。
 「夕焼けが綺麗だから、きっと明日も良い天気ですね」と言って晴美も立ち上がった。
 「そう、だから泳ぐには夕方からでちょうどいいんだ、お盆過ぎればクラゲが出るから、泳げるのはちょっとの間なんだ」
 晴美は、2人でいる時は何も考えずにただ楽しめばいいんだ、たとえ、後で悲しむことがあっても、楽しい時を持った方がまだましだ、と考えるに至った。
 そう思うと、急に明日が待遠しく感じられ、帰りの砂浜もルンルン気分になった。
 「走ろう」と啓介が言った。
 「ええ」と言って晴美は先になって、走った。※36へ

(写真は、恩師と同級生とで花見に行った公園の桜)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)
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2006年04月05日

山里の見える桜道―C


C.jpg※34
 晴美は有り得ないことだと思った。
 手を繋ぐのは男女の愛の証しで、何も関係ない男女がたやすくやることではないと、ずっと思っていたのだ。
 晴美は20歳になる今まで恋人がいたことがない。もちろん男性から手を握られるという経験は、考えてみれば父親意外に思い出せない。
 啓介の手はその父のように大きくて温かく、懐かしい感じがした。自分の胸の鼓動が手まで伝わり、啓介に感じ取られているようで、とてつもなく恥かしかった。手のみならず、顔までほてってくる。

 啓介は晴美が動揺しているのが分かったのか、晴美が離そうと思えばいつでも離せるように、手を握る力を弱めた。
 晴美は、私の意志に任せられたのだ、と感じ取った。
 しかし、その手を離すと二度と握ってもらえないような気がして、何となくこそばゆく感じる右手をがまんして、握られるままにしていた。

 あっという間に岩場の丘に着いた。晴美には物足りないほど短い時間に感じられた。
 啓介は、だだっ広い大きな石を見つけると、海を眺めるかっこうで腰をおろした。
 胸の鼓動も大分収まった晴美は、すんなりと啓介の横に納まった。
 2人はしばらく、海と、夕陽と、西の空に浮かんだ雲が次々と茜色に染まっていく様を、時の経つのも忘れてじっと眺めていた。※35へ

(写真は、桜道から見下ろした所に広がっていた山里)
(上記小説は、カテゴリー短編小説[茜雲]で連載中)

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