2006年11月08日

小説・喫茶店

65
 茂は、みどりとお昼に会う約束を取り付けた後、すぐ出張した。挨拶回りが2〜3箇所残っていたのだ。挨拶回りは思ったより早くトントンと片づいてしまった。茂は事務所へは戻らず、そのままマロニエへ直行した。
 お昼までは20分程時間があった。
 前回みどりと座った、入口の側の観葉植物で仕切られた席を取った。
 一服しようとタバコを取り出した時、茂の目の前に、突然、遙の姿が浮かび上がった。遙と会う時いつも座ったテーブルで、1人で居る悲しそうな遙の姿だった。胸に、締め付けられるような痛みが走った。茂は思わず立ち上がった。奥のフロアーを覗いて見たが、遙が居る筈はなかった。
 遙のことはすっかり忘れていると思っていた。
 やはり、心のどこかに遙がまだ残っているのだろうか。けっこう自分も傷ついているのだ、女性を悲しませることも、きっと大きなストレスになるのだ、と茂は思った。

 みどりはなかなか現れない。
 ウエートレスが「何になさいますか?」と紋切り型に2度目のオーダーを取りにきた。
「コーヒー。それからあと1人来ますからそれから注文します」
 何気ないウエートレスとの、このやりとりが好きだった。
 この喫茶店も今日でお別れだ、と思うと茂は胸に迫るものを感じるのだった。
 ドアベルがカランコロンと鳴った。
 みどりが息を弾ませながら入ってきた。

                       《完》

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載してきましたが今日で完結しました。短編のつもりがまたまた長くなってしまいました)

posted by hidamari at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月06日

小説・喫茶店

64
 明日はもう事務所へは来ないのだと思うと、茂は、どうしても、もう1度だけみどりに会っておきたいと思う気持ちを抑えることが出来なかった。
 送別会の夜、茂は密かに、この後コーヒーを飲みに行こう、とみどりを誘っていた。しかし、みどりは、子供が待っているからごめんなさい、と言って、そそくさと帰ってしまったのだ。
 あれからずっと会話らしい会話も交わせず、ついに今日まで来てしまった。このまま、別れてしまうのは、茂にとって忍びがたかった。遙との場合はそのことをホッとしているのに、みどりとの場合はどうしても諦めることが出来ない。何をどうしたい、という訳ではないが、ただ会いたかったのだ。
 茂はその日せっぱ詰まっていた。女々しいと思いながらも、みどりにもう1度だけアタックすることを惜しむまい、と心に決めていた。
「明日、飛行機で発ちます。最後に今日ちょっとだけでいいです。コーヒー付き合ってもらえませんか」妙に、いんぎんな口調で、しかも有無を言わせないような迫力で迫っていた。
 ちょうど回りには誰もいない、コピー室を狙った。
「あら、そうだったですねえ。明日は飛行場までは見送りに行けないし…、波止場だったら行けるのに…」と言って、みどりは、頭を少し傾げて空ろな目をした。これはみどりがいつも困った時にする癖だった。その後どんな返事が返ってくるか、茂はいつもドキドキして待ったものだ。
 今日もまた茂は、みどりの返事を、息を殺して待っていた。ほんの1分くらいが長い長いトンネルの中のように感じられる。
「いいよ」
 みどりから発せられた天の声を聞いて、茂は、やっと止めていた息をふーっと大きく吐き出した。
「お昼休みにマロニエで待っていて!」と言うと、みどりは少女のように首をすぼめてニコッと笑った。みどりは一度決断すると、ふっ切れたようにカラッと明るくなる。これもいつもの彼女の癖だった。
 そして、コピーした書類を胸に抱いて、みどりは、何もなかったようにコピー室を出ていった。65へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月04日

小説・喫茶店

63
 携帯が鳴る度に、茂は、遙からではないかとヒヤヒヤしていた。しかし、遙からはあれっきり何の音沙汰もなかった。
 もう1度くらいは、呼び出されて、怒りをぶつけられるものと覚悟していた茂は、ホッとする反面、拍子抜けした感もしていた。
 遙は勝気でしっかりものだ。ダンスもすぐうまくなった。何事においても完ぺきだった。それ故、他人には決して弱みを見せず、プライドも高い。
 よく考えれば、遙に限って、決して2度と、泣き言を言ったりはしないだろう。
 頭の良い女だ。いくら引き止めても、茂の気持ちがもう戻らないことを分かっているのだ。
 2度と会わないのが、せめてもの女の意地なのだ。
 茂は健気な遙を思って、改めて自分の傲慢さを申しわけなく思った。
 これを機に、茂は、女性を2度と泣かせることはするまい、と真面目に反省したのだ。
 明日、3月31日、茂はいよいよ六島を後にして、熊本へ戻る。1年間の短い期間だったが、六島は、茂にとって忘れられない土地になった。64へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 21:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月02日

小説・喫茶店

62
 既に学校は春休みに入っている。幸い、遙は転勤は免れたものの、新学期に向けて仕事は限りなくあった。
 学校で仕事をしていると、何とか平常心を保つことが出来ている。遙は4年生から5年生になる生徒を、引き続き受け持つことになった。3クラスある5年生を受け持つ先生の中で、遙が1番若い。当然、雑務を一切引き受けた。そのため残業もかってでた。そうすることによって、何とか日々を過ごせていた。
 これが積み重なって、いつか傷も癒え、茂が過去の人になり、良い思い出に変わっていくのだろうか。
 今まで過ごした茂とのことが、まるで遠い夢の中の出来事に思えるが、悲しいことに、何1つ楽しいことはなかった気がする。
 たいていはイライラしていた。彼のちょっとした言動に一喜一憂している憐れな自分の姿しか、思い出せない。
 茂るから「愛している」と、言われたことはなかった。
 いつも「愛している」と言っていたのは遙だった。その時は、それでも嬉しかったし幸せだった。
 彼が、自分を愛していなかったと、思いたくない。
 少なくとも、彼からのアタックから始まった愛だった。
 会えば肌を重ねていた。その時、彼の身体からは、確かな愛を感じた。
 でも、そういえば、それも一瞬で、肌を離せば、いつも空しさだけが残っていた。
 遙は、いつかはこうなることが分かっていたような気が、今改めてしていたのである。63へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)
posted by hidamari at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月31日

小説・喫茶店

61
 水をかけられても、頬をぶたれても、怒りは湧いてこなかった。むしろ、そのことで返って気が楽になっていた。
 遙にはやはり荒療治過ぎたのだろうか?離れていけば自然消滅するかもしれないのに、自分が早くすっきりしたいばかりに、先を急ぎ過ぎたのかもしれない。
 茂は、自己嫌悪に陥っていた。
 遙が立ち去ってから、何本たばこを吸っただろうか。
 ウエートレスが「大丈夫ですか」とおしぼりの換えを持ってきた。
 幸い、一段下がったフロアーにあるこの席は、他の席から見えにくい。同じフロアーの隣にあるあと1席も偶然、空席のままだった。ということは、茂と遙が繰り成した異様な光景は、客には殆んど気付かれなかったのだ。
 ただ、ウエートレスだけは、ただならぬ様子でマロニエを出ていった遙を見て、察しがついているようだった。
 興味深そうに茂の様子を見にきたのだ。
「いや、大丈夫です。コーヒーお代わりください」
 茂は、冷たくなったコーヒーカップを差し出した。62へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

小説・喫茶店

60
 茂から、別れる、とはっきり言われるまで、どういう意味か理解出来ずに、遙は何度も聞き返した。
 それがはっきり分かった時、目の中に洪水が起きたように、みるみる涙が溢れてきた。その涙であっという間に目の前が見えなくなった。遙は唇を噛みしめてうつむいたままで固まっていた。
 信じたくないことばだった。
 夢の中であってくれれば、と思った。身体の中から力が抜けていくのを、手に取るように感じていた。突然、ジャングルの中においてきぼりにされたように、不安と孤独が押し寄せてきた。
「なぜなの?他に誰か好きな人がいるの?」と、やっとの思いで、茂に迫った。
「違う。…ごめん。…結婚する気がないんだ」
「いい、他に好きな人がいないのなら、結婚出来なくてもいいから。…お願い、このまま付き合って!」
「だめ!君とはこれで終わりにしたい。本当に申訳ない」。

 遙は自分を見失っていた。錯乱していたのかもしれない。
 気がついたら、飲み屋通りをトボトボ歩いていた。胸の中は憤りと悔しさが渦巻いていた。
 遙は、感情を抑えることが出来なかったのだ。
 目の前のコップを掴むと、その中の水を茂にぶっかけた。それでも治まらず、茂の前へ行き、茂の頬を平手で思い切り叩いていた。そしてそのまま、外へ飛び出したのだ。
 茂を好きだった分、憎しみも大きい。
 何をしても、気分は治まらなかった。

 これから、憤まんやるかたない、このいらだちをどう抑えて、折り合いをつけていけばいいか、遙は全く見当がつかなかった。
 ふっと、このまま死んでしまいたいという思いが頭をかすめた。
 しかし、とても死ぬ勇気はないだろう。
 時が経てば忘れることが出来るのだろうか。
 遙は成す術もなく、ただ、トボトボと飲み屋街をさまよっていた。61へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)
posted by hidamari at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月27日

小説・喫茶店

59
 このところ、茂は、夢にうなされて、夜中に目が覚める日々を送っていた。
 熊と格闘していたり、暴れ牛に追いかけられていたりするのだ。その度に「ギャアー」と、叫んだ自分の声に驚いて飛び起きてしまう。
 思い当たることは、遙のことしかない。
 自分では何も気にしていないつもりだった。しかし、どこかで、遙に申訳ない、と思っているのかもしれない。
 遙には「転勤になった。今まで有難う。元気で、じゃあさようなら」と、言って別れるつもりでいる。
 遙はどう対応するだろう?「そう、じゃあこれでおしまいね。さようなら、元気で」
 これですんなり納得してくれるのだろうか。泣いてすがられたらどうしよう。
 過去の女性は都会育ちのドライな性格だった。イーブンな付き合いと割り切っていたのか、後腐れは何もなかった。
 遙も今時の進歩的な女性ではあるが、土地柄というのもある。結婚してと迫られないとも限らないのだ。
 夢でうなされるのは、その状況を形を変えて体験しているのかもしれない。
 それは恐怖に思っているということなのか。
 しかし、そうかといって、遙と結婚しようとは思わない。
 遙に会い、転勤のことを知らせ、彼女と穏やかな別れをしたかった。このことがクリアになれば、茂は枕を高くして眠れるだろうと勝手なことを思っていた。

 3月24日、県の教職員及び職員の人事異動が発表された。その日の夕方、茂と遙はマロニエの、いつものテーブルで向き合っていた。60へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月25日

小説・喫茶店

58
 茂はみどりが既婚者であることに気安さを感じて、近づいていった。少なくとも初めのうちはそうだった。
 しかし、過去、茂が付き合った既婚者の女性に対する思いとは、みどりに対する思いは、気持ちが少し違っていた。
 それは、みどりを恋愛の対象にして見ていたわけではなかったことだ。
 知人のいない離島で、子育て、仕事と、一生懸命頑張っている彼女の姿が、茂にはとても輝いて見えた。そんな健気な彼女を応援せずにはいられなかったのだ。
 肉親にエールを送るような感じだった。
 みどりも茂に対して、常に優しい態度で接してくれた。
 組織の違う中で孤立している茂は、部屋の中では疎外感を感じる時もある。そんな時いつでも温かい態度で接してくれるみどりは、オアシスのような存在だった。
 そんな母親を想うような気持ちが、いつの間にか男女の情愛に変わっていたのだ。

 茂は今、すっきりしていた。
 みどりに断られたことは、とても辛いことだが、どこかでホッとしていた。
 真面目で家庭思いの彼女だからこそ惹かれたのかもしれない。
 これ以上、自分が深入りすることは、良くないことは分かっていた。男の弱さとエゴなのか、それでも誘わずにはいられなかった。もし、彼女が応じていたら、茂は男として引き返せないだろう。そうなったら行き着く所まで行き、純粋なみどりとだからこそ、悲惨な結末になりかねない。
 今までの既婚女性とは、軽い乗りで付き合い、軽い乗りで別れた。
 彼女はそんな女性ではなかった。
 男女としてではなく、人間として付き合えたことが、茂の中で、ますますみどりを素晴らしい女性に膨らませていったのかもしれない。
 茂は、今素直に、みどりに出会えたことに、心の中から感謝していた。59へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 21:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月23日

小説・喫茶店

57
 みどりは今でも夫を1番愛している。
 夫に裏切られることも考えられないが、それ以上に、自分が夫を裏切ることは考えられなかった。
 もし、そういうことになったら、たとえ夫にそれがバレなかったとしても、自分の堕落を下げずむことにより、夫との間に自ら深い溝を作ってしまうことになるだろう。
 そんなことは絶対いやだった。
 一時の感情に負けてはいけない、と思った。

「ごめんなさい。わたし、行けない」みどりは、小さな声だったが、茂の目を見て、はっきり断った。
「そう、残念だね。…じゃあ親睦会の送別会の夜が最後になるんだ。保坂さんとゆっくり話せるのは」
「そうかもね、県の事務所も異動者がいるから、小久保さんも入れて合同の送別会があるでしょうね」
「そうなると思う。その時は保坂さんも出席するでしょう?必ず出席してね」茂は、納得したようだった。穏やかな口調だった。
 みどりは、ちゃんと、ダメだ、と言えたことにホッとしていた。
― 私は今、こんなことにうつつを抜かしている場合ではないのだ。子育てと仕事で手一杯ではないか。しっかりしなくては ―
 改めて自分の立場を噛みしめたみどりだった。

 2人は何事もなかったように駐車場へ行き、「じゃあー」と言って、別れた。
 茂は再び市内の仕事現場へ、みどりは事務所へと向かうべく、2人は夫々の車へと乗り込んだ。
 太陽の温もりがこぼれるような陽射しの、穏やかな春の午後だった。58へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

小説・喫茶店

56
 時計は既に12時45分を指している。
 茂はコーヒーを満足気に飲んでいる。
 香ばしい匂いはみどりの胃袋を刺激はするものの、いっこうに美味しいとは感じられない。もともと、みどりはコーヒーの味が分かる人ではないのだ。
「どう?」茂がおそるおそる尋ねた。
「美味しい」みどりは作り笑いをした。
 しかし、みどりがあまり美味しいと思っていないのはバレバレだった。茂は諦めた様子でそれ以上何も言わなかった。
 みどりは、美味しいと思えないのを、本当に申訳ないと思った。
 ただ、今日はどんなに美味しいものを出されても味は分からないだろう。
 
「…それでね、ちょっとお願いがあるんだ」茂は腕時計をちらっと見ながら言った。
「保坂さんともう1回だけ、松江の海に行きたいんだ。時間取ってくれないかな」
 みどりは、一瞬目を丸くした。
 本気?とでも言うように
「それはまずいよ」と即座に応えた。
「…そんな時間ないし」と、ポツリと今度は自分自身に言い聞かせた。
 頭の中は、いろんなことを想定して目まぐるしく回転していた。
 断ったら終わりだ、結論は急がなくても、という考えもあった。
 しかし、どう考えても出来ない相談だった。
 2人の気持ちがお互い分かり合ったからには、これ以上親しく出来るはずがなかった。
「何も深い意味があるわけじゃないんだ。お別れに思い出づくりにどうぉ?…また出張ってこと出来ないかな?……休日でもいいし、子供連れでもいいよ」
― 子供連れ ―その言葉にはっとさせられる。
 そこまで譲歩して誘ってくれる茂の熱い眼差しに、みどりの心は揺れ動いた。57へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月19日

小説・喫茶店

55
 みどりもその時感じていた。
 2人の間にただならぬ危険な香りが漂っていることを。
 怖いと思った。
 つい、うっかり本音を出してしまったことで、茂まで巻き込んだのではないか。
 これはマズイ、
 早くこの空気を一掃しなければ。
 何か話さなければ、と思えば思うほど話題が思いつかなかった。
 ふと気がつくと、テーブルの上にランチが並んでいるではないか。
 いつの間に来たのだろう。
 ウエートレスが並べるのを逐一見ていたような気もする。
 コンソメスープの入ったマグカップ、ミニハンバーグ、ナポリタンのパスタ、ポテトサラダ、キャベツのせん切りなどが少しずつ盛られたお皿、クロワッサンとフランスパンがカットされたものが載ったお皿、それらが2セット、テーブルの上に、所狭しと並べられていた。
 ウエートレスが慣れた手つきで並べる様が蘇ってきた。
 我に返った、みどりは慌てて
「さあ、頂きましょう」と茂を促し、「頂きます」と丁寧に手をあわせた。
 それから2人はもくもくと食事に専念した。
 しかし、みどりは胸が一杯で食事は喉に通らなかった。 どれを食べても味がしないのだ。味を感じるのは舌ではなくどうやら脳らしい。その脳が食事に全く集中出来ていないのを感じていた。
 みどりの舌は上の空状態だった。
「コーヒーが美味しいから」
 茂がすまなさそうに言った。茂はきれいにたいらげてしまった。
 彼は冷静なのだ、と感心すると同時に、みどりはどこかちょっと不満だった。不公平な感じがしたのだ。
「ごめんなさい。決して不味いんじゃないのよ。胸が一杯で……」と言いながら、みどりは、こんなこと言っちゃいけないと思い、最後の言葉を慌てて飲み込んだ。
 茂はテーブルの隅に置いてあった呼び鈴を押してウエートレスを呼び、コーヒーをオーダーした。56へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月17日

小説・喫茶店

54
「そうだよねー、転勤かあ、私も来年で六島勤務3年になるの。育休が1年あったけど、だいたい離島勤務は3年で本土へ帰れるっていうから。…わたし、国家公務員は2年くらいだろうって思ってた。だから、小久保さんもきっと転勤は来年だと自分で勝手に決めていた。バカだよね」
「僕だって、少なくとも9月までは大丈夫と思っていたんだよ。でも前々から六島駐在は9月で廃止とは決っていたんだ。それが早まっただけなの」
 茂とみどりの会話の口調は未だに定着していない。丁寧な言葉を使う時もあれば、フレンドリーな口調になることもある。
 実際、茂は言葉使いで戸惑うことがある。
 みどりは茂より年上で、また彼女でもない。対等な口調ではまずいのでは、と思うのだ。
 しかし、今までのことを思い出すと、話しを続けるているうちに、2人は、いつのまにか打ち解けた俗にいうため口になっているのだ。
 みどりの方は茂に対して、職場では必ず丁寧な言葉で話しかける。もっともみどりは、誰に対しても職場では丁寧な言葉を使っているのだが。

 茂は今、ひどく感激していた。
 みどりが「小久保さんの転勤は来年だと決めていた。バカだよね」と自然に発した落胆したような言葉にだった。
 その言葉で十分みどりの心情が伝わってきたのだ。
 それに反応して自分が言い訳したのも自然だった。
 これはもう2人の心が通じていた証拠だった。
 それがお互い分かった時、2人の間に気まずい空気が流れた。
 照れくさい気持ちを通り越して、茂の心に、みどりに対する愛おしさが、沸々と湧いてきた。
 彼女の身体を抱きしめたい衝動にかられた。もし、すぐ側にみどりの身体があったら感情のおもむくままに抱きすくめただろう。
 幸か不幸か、みどりの身体はテーブルの向こうだった。55へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 13:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

小説・喫茶店

53
 見るともなしにみどりに目をやったウエートレスは、ちょっとどぎまぎしたように目を泳がせた。改めて再確認するようにみどりを見て、おもむろに茂を見た。
「いつもの方ではないですね」と、冷やかすような目だった。
「お手軽ランチ2つ」茂は何食わぬ顔で言った。
 ウエートレスは「お手軽ランチ2つですね」と復誦すると、またもとの無愛想な顔に戻り去っていった。
 考えなかった訳ではない。遙を彼女と決めて一緒に通っている喫茶店に、少なからず好意を持っているみどりをも連れて来るのは、やはり無神経かもしれない。
 それでもやはりここがいいと思った。他に適当な場所も知らない。
 何よりコーヒーが美味しい。常々1度はみどりにも味わってもらいたいと思っていた。
 遙が知ったらいやな気もするだろうが、ウエートレスは、無愛想な分、余計なことも言わないだろうという確信があった。茂は元々そういうところを、この喫茶店の良さだと思っている。
 それに茂は、少しは配慮もしていた。遙と座るいつもの奥の席は、ちゃんと避けていたのだ。

「それで何?話しって」みどりは、前に置かれたお冷を手でしっかり包みながら言った。
「ああー、…実は僕、…4月に熊本本所へ戻ることになったんで…」
「えっ、転勤!」
 一瞬、頭の中が真っ白になった。
 ― ああー、そのことだったのか、なるほど彼は長期出張のような立場だったんだ、何で転勤のこと、気がつかなかったのだろう ―
 みどりは自分でも驚くほど動揺していた。
 結婚話をされたら寂しい気持ちになるだろうと思っていた。しかし、それは覚悟していた。それに結婚するのは、少しは先のことだろうから、と思っていた。
 しかし、転勤となるともう時間がない。4月からは彼の顔を2度と見られなくなるのだ。
 考えていなかった展開に、茂が結婚してしまう寂しさより以上に、人が去ってしまう意味での寂しい気持ちが押し寄せてくるのを感じていた。54へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

小説・喫茶店

52
 中には茂が待っているはずだった。なぜなら、駐車場に、いつも見慣れた四輪駆動車が、既に停まっていたのだ。
 店内は外から見るより広々として落ち着いた雰囲気だった。
 ドアベルのカランカランと鳴る音と同時に、ウエートレスが「いらっしゃいませ」と機械的に言った。
 満席ではなかったが、程よく混んでいる。
 何処に茂が座っているか、一見しただけでは分からない。立ちすくんでいると
「こっち」と茂が後から肩をたたいた。
 見えなかったが入口の直ぐ横に、観葉植物が置かれた台で仕切られた席があったのだ。
 茂はみどりを席に案内すると
「僕も今着いたんだ」と言った。
「そうだったの、ちょうどよかったね。久しぶりよ、こんな所でお昼するのは」
 みどりは頬を少し上気させていた。平常心を保とうと思っても胸のドキドキが治まらない。いつもならお腹が空いてたまらない時刻なのに全く食欲も感じないのだ。
「何がいい?」メニューを開きながら茂が言った。
「早く出来るものがいいんじゃない?」
「喫茶店だから、簡単なものしかないんだ。でもこのお手軽ランチならまあまあいけるし、早く出来ると思うよ」
「それにする」みどりは、言下に同意した。ホントは食事などどうでもよかった。とにかくお昼休みの間に話を聞き終らせなければならなかった。
 ちょうどその時ウエートレスがお冷を持ってオーダーを取りにきた。53へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月11日

小説・喫茶店

51
 通常みどりは、昼食を、お弁当屋さんが売りに来る幕の内弁当で済ませている。
 事務所の外へ出て昼食を取るのは、六島ではめったにないことである。
 出張先ではいざ知らず、職場の男性と2人きりで外で昼食を取るのは、みどりにとってやはり勇気がいることだった。
 職場から少し離れた所にある喫茶店だから、職場の人に会うことはまずないだろう、と思った。
 夫にも同僚にも、小久保と食事に行くとはなぜか言えなかった。
 それにしてもいったいどんな話しだろう。
 考えられることは、今付き合っている彼女との結婚話か、別れ話だろう。自分に対する恋の打明け話ではないことは確かなのに、やたらと胸がドキドキした。
 しかし、自分に関することではないと思えたから、茂の突然の誘いを受けたのだ。みどりは密かに自分に言い訳をしていた。
 みどりは、12時10分ちょうどにマロニエのドアを開けた。52へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)
posted by hidamari at 14:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月09日

小説・喫茶店

50
 茂はみどりにちゃんと話しが出来るチャンスを覗っていたが、遠くからアイコンタクトは出来るものの、なかなかゆっくり話すことは出来ずにいた。
 しかし、3月も10日を過ぎた時、やっとチャンスが巡ってきた。
 その日、茂は現場から夕方6時過ぎに帰って、駐車場で公用車を洗っていた。
 その時、みどりが退庁すべくちょうど駐車場へやって来たのだ。
 茂は、今しかないとみどりに近づいていった。
「あら、お帰りなさい。遅いのに洗車まで大変ね」
「ただいま、まあ、貧乏暇なしですから…」
「…じゃあ、お先に」みどりは、洗車の手を止めてわざわざ近づいてきた茂をいぶかりながらも、車のドアに手をやった。
「あのぉ、ちょっといいですか?」
「えっ、何?」
「実はちょっと保坂さんに話しがあるんで、…明日の昼休み、時間とってもらえないかと…、昼食一緒にどうですか?」茂は、頭の中で何回も練習していた通りのことを言った。
「…私に、…いったい何かしら」みどりは、一瞬戸惑った顔をした。目を丸くして、唇を噛みしめた。急な申し出に、いろいろなことを想定して迷っているのだろう。沈黙の時間が流れた。
「あのぉ、大したことないんで、昼食と言っても喫茶店で、…ほら、この間、前を通ったでしょ、マロニエ。あそこ…、軽食しかないし」
「それはいいんだけど…、でもまあいいわ、じゃあ明日12時10分頃マロニエへ行きます」
 みどりは決断したようにきっぱりと言った。ふっ切れたように明るいいつもの笑顔で茂の目を見ると、2回軽く頷いた。
「じゃあね」と言うと、みどりは何事もなかったように車に乗り込んだ。
 茂はみどりが乗ったカローラに手を振りながら、心の中で、ヤッホー、と叫んだ。51へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

小説・喫茶店

49
 遙の茂に対する熱い思いを知っているだけに、茂は4月転勤のことを切り出しかねていた。
 今年になって遙がよく口にしているのは「4月に転勤てことはないよね」ということばだった。
 その度に「ないとは思うけれど、前例を見ると1年から1年半で本土へ帰されるケースが多いよ」と、それとなく引導を渡していた。
「もし転勤て分かったら、その時点ですぐ私にも教えてね」と、茂の転勤に対して遙は異常に神経質になっていた。
 教師の遙は自身の転勤も考えられることだった。 
 転勤先は六島内が殆んどだが、中には本土へ転勤していく人もいるのだ。
 茂と結婚出来るなら、本土への転勤を希望することも、遙は密かに考えていた。
 茂は遙がそこまで考えているとは知らなかったが、少なくとも、かなり動揺するだろうということは分かっている。
 転勤のことはなるだけ遅く知らせる方が賢明であると考えた。
 でも、みどりには、一刻も早く転勤のことを知らせたい、という思いにかられていた。50へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月05日

小説・喫茶店

48
 六島は日本の西端に位置している。周りを海に囲まれているので温暖な住みやすい気候である。
 3月の声を聞くととたんにぐっと気温が上がりすっかり春のけはいが漂う。菜の花がここそこに咲き誇っているせいだろうか。
 茂はこの六島の景色が好きだった。季節毎に変わる海の色、山の色、田んぼの色。それらを全て、直に目の当たりに見ることが出来るのだ。それは大きな箱庭に美しい物を何もかも詰め込んで、いっぺんに観ているような感覚である。
 茂は4月で六島勤務丸1年を終えることになる。
 過去の例から、六島駐在はだいたい1年から1年半で終了し、本土へ帰還することになっているのだ。
 3月になってすぐ茂は熊本の本所へ呼び出された。
 かねてから話しがあっていたことだった。3月一杯で六島駐在を撤退する方針だと告げられた。
 茂は複雑な気持ちだった。離島勤務を終えて本所へ帰ることは、喜ぶべきことかもしれない。
 茂は自然相手の単独行動が、自分の地に会っていると感じている。将来もまた日本のどこかの国立公園へ駐在することになるだろう。
 六島では、自然との出会いの他に、人間との大事な出会いがあった。
 しかし、別れはすぐそこに迫っていた。49へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月03日

小説・喫茶店

47
 翌日、茂は元気に出勤してきた。
 みどりにも年始の挨拶をしてくれた。心の中の熱い思いと裏腹に、みどりはたんたんとありきたりの挨拶をした。でも、ただ微笑み合うだけで、とても満たされた感じがしたのだ。茂からのテレパシーも十分伝わったからかもしれなかった。
 その一方、家族の絆という器から、水が滴り落ちるような不安がよぎる。
 結婚している自分がこんな感情を抱くなんて思ってもみなかったことだ。
 みどりは自分を許せなかった。
 毎日こんこんと湧き出ている、透き通った水を、1滴たりとも、ぜったい零したくないという強い気持ちがフツフツと湧き上がってきたのだ。
 みどりにとっては、家族の絆は何ものにも変え難い大事なものである。
 それに比べると、茂は単なる職場の友人である。しかも、同じ職場でもない、間借り人みたいな存在である。何時居なくなるかも分からない人なのだ。
 タレントを好きになるファンのような気持ちでいればよい。
 結論は出ている。
 これ以上、茂とは親しくなってはいけないと。48へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

小説・喫茶店

46
 年末、年始の休暇は主婦にとって目の廻るような忙しさだ。でもそれはみどりにとっては楽しい充実した期間でもあるのだ。家庭にいる時は仕事のことは一切忘れてしまう。家事に振り回されている間は、当然職場の難しい人間関係も、し残しの仕事のことも思い出す暇がないのだ。
 職場でのストレスは、家庭で家事をすることによっていつの間にか払拭されるし、反対に家庭のストレスは職場で仕事に追われることでうまいこと払拭出来る。家庭と職場の仕事を交互にこなす事で、バランスが取れていると、みどりは共働きの今の状態に感謝していた。

 4日に久しぶりに職場に出て、みどりはほっとしたのだ。なのに、いま一つ落ち着かないところがあった。何かもの足りなかったのだ。
 茂の姿が見えないことはすぐ分かったが、まさかそんなことが影響されているとは思いたくなかった。しかし、やはりそれしか考えられなかった。
 休みの間はこれっぽっちも茂のことは思い浮かべなかったのに、事務所で自分のデスクに座ったとたんに茂の存在がクローズアップされたのだ。
 不思議な感情だった。
 明日になれば、茂はきっと何事もないように出勤するだろう。
 それなのに、心にぽっかり穴があいたような寂しさがあった。不安でたまらないのだ。
 これってもしかして、彼を意識しているのだろうか?
 そんなはずはない。
 単に職場の友人として、居るべき人が居ないのが気になるだけだと、みどりはむりやり自分に言い訳をしていた。47へ

(上記小説は、カテゴリー短編小説〔喫茶店〕で連載中)

posted by hidamari at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説〔喫茶店〕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする