2006年09月29日

小説・喫茶店

45
 茂がみどりに会っていない期間は、遙の場合とそう変わりはなかったのだが、みどりに対してはとても長いこと会っていないような気がした。遙に会えるのは当然のような気がした。しかし、みどりの顔を見た時、ああ今年も彼女の顔がこんなに近くに見られるんだと、安堵感にも似たある感動を覚えたのだ。
 役所では、4日に、各部所毎でも1年の初めのけじめとして、一同を会してちょっとした御用始めの式が行われている。これによって、年の初めの挨拶を個々に交わす手間が省けるのである。
 茂はむろんこの日にいなかった。1日遅れで年始めの挨拶を個々にして廻るのは、若い茂にとっては煩わしいことだったのだが、1つだけいいこともあった。みどりに正々 堂々と話しが出来ることだった。
 みどりと言葉を交わすのは、暮れに飲み屋街でばったり会った時以来だった。

 あの日、茂は、仕事先から直接、遙との待ち合わせ先のマロニエに行くところだった。
 一方みどりは、子供を保育所から連れて帰り、帰宅した夫にその子供たちを託して、仲間より一足遅れで忘年会会場へ向かう途中だった。
 2人が街中でばったり会ったことが、とても新鮮だった。その偶然が特別な絆のようで、茂は親しみが倍増したような気がしたのだ。
 マロニエに着くまでホントにあっという間の時間だった。何を話したか覚えていないが、心がずっとウキウキしていたことは確かだった。

「お帰りなさい。故郷はどうでした?ご両親はお元気だった?」
「はい、お陰様で家族は皆元気でした」
 妙によそよそしいありきたりの挨拶だったが、茂にとっては家族のことを思いやってくれる特別な言葉に感じ取っていた。
 何気ないこんな会話を、みどりと交わしている状態が、茂はとても幸せな瞬間だったのである。46へ

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2006年09月27日

小説・喫茶店

44へ 
 遙はただルンルン気分で迎えに行った訳ではない。
 ホントは茂といつも連絡を取り合っていたかった。それなのに、遙が、いつ帰るの?と聞いても、分からない、と教えてもらえなかった。それが何を意味するか、遙は痛いほどよく分かっていた。遙は茂にとってそれくらいの存在なのだ。当然お正月休みの間、メール交換もなかった。
 それが分かっていてもどうしても諦めることが出来ない。押せば押すほど相手には煙たがれることも分かっている。それなのに自分の気持ちをコントロール出来なかった。
 実は、遙は昨日もこの時刻にターミナルに来ていた。4日から仕事始めなので、3日の夜には帰ってくると推察したのだ。
 そういうことがあっての今日だった。どういう顔で迎えようかと迷っているうちに、出難くなった。後から身体を押して驚かせたのは、1種の照れ隠しだった。
 危惧していたように、迎えに行ったことを、茂はさして喜んでいる風ではなかった。
 でも遙には嬉しいことがあった。
 茂が遙のためにおみやげを買ってきてくれたことだ。
 人に物をあげることが好きな遙は、当然茂にも何かことある毎にプレゼントをしてきた。決して見返りを期待しているわけではない。
 ただ、心の片隅に、茂からプレゼントを貰ってみたいと、いつも思っていたことは否めない。
 もしかしたら、今回、お菓子くらいは買ってくるかも、とは思っていた。
 ところがおみやげは、遙が思いもしなかったエルメスのピンクのスカーフだった。身に付けるものだ。しかも高そう。信じられないことだった。
 報われた気持ちがした。これだけで1年くらいは穏やかに暮らせそうだった。それほど遙にとって、嬉しい茂からの初めてのプレゼントだったのだ。45へ

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2006年09月25日

小説・喫茶店

43
 暮から正月にかけて実家の宮崎で過ごした茂は、1月4日には、いったん熊本の事務所の方へ出勤した。御用始めの挨拶をするためにわざわざ出向くのも事務所のしきたりなのだ。
 挨拶を済ませると、その日は早々に事務所を引き揚げ六島へと向かった。
 10日も経っていないのに、年が変わったためか、ずいぶん長い間留守にしていたように感じ、六島の景色が妙に新鮮だった。
 六島港の船着場に着いたのは夕方6時頃だった。あたりはすっかり夜のとばりがおりていた。色とりどりの外灯が海面で反射し、その長い光線が何本も交差してゆらゆらと波打っている。
 磯の香りが風に乗って鼻へ届く。茂は六島の香りが好きだった。特に夜の港の香りは、郷愁を誘った。
 港ターミナルビルの中を通り抜け、足早にタクシー乗り場へと向かっていると、突然後から「わっ!」と背中を押されて、茂は飛び上がった。
「なに!」と振り返ると、そこに遙がニコニコ笑って立っていた。
「何だよ、びっくりするじゃないか」遙の子供じみた行動がちょっと腹立たしかった。
「ごめんなさい。迎えに来たのよ、駐車場に車置いているから」
「あれ!僕、帰る時間言っていたっけ」
「はい、はい。はっきりは聞いていなかったけど、何となく聞いていた。それに聞かなくても大体わかるでしょ?昼と夜しか汽船入らないわけだし、今日が御用始めだし」
「なるほどね、…でも、…あ、有難う」
 茂は遙が迎えに来てくれるとは思っていなかった。来て欲しいとも思っていなかった。
 でも、こうして気を利かしてくれるのは、やはり悪い気はしなかったのである。
 幾分気が重くない訳ではない。でもあまり深く考えるのはよそう、水の流れに沿っていくしかないのだ。取り敢えず今日は送ってもらおうと、茂は腹を決め遙の後をついて行った。44へ

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2006年09月23日

小説・喫茶店

42
 熊本の事務所で今年最後の業務打ち合わせ会議に出席した後、少し時間が出来た茂はぶらりと熊本の繁華街に出た。夜は小料理屋での飲み会に招かれていた。事務所の先輩たちが、茂のために急きょ集まってくれるというのだ。
 宴席はあまり好きではないが、これも仕事の内と割り切っている。茂は役人になってこういう所はちゃんと受け入れていた。
 夜の飲み会までは、2時間ほどの空き時間だった。
 熊本の街は殆んど知らないといってよい。手っ取り早くデパートへ行った。
 まず頭に最初に浮かんだのは実家の母へのおみやげを買うことだった。何か身につける物をと思ったのだ。
 六島の土産といえば海産物であるが、それは、遙が干魚の物詰め合わせを持たせてくれた。
 遙の家は漁業をやっているてまえ、手に入りやすいこともあるが、やはり遙がよく気がつくしっかり者の証しだろう。遙は干物以外にも、六島の銘菓を職場用として持たせてくれた。まるで妻がするような遙の気配りに対して、今回は現金なことだがホントに有り難かった。
 それなのに、遙におみやげを買うことを、なかなか思いつかなかった。
 それどころか、母へスカーフを買った後、通りかかったおもちゃ売り場で、ヒーロー物のグッズや仮面ライダーなどに群がっている男の子を見て、翔太に買っていったら喜ぶだろうなあ、と思ったのだ。
 しかし、やはりそこまでするのは不自然だと思った。なぜなら、翔太の後に母親のみどりがちらついたからだ。翔太に対する純粋な思いではなかった。
 みどりのことを思い出し、後ろめたく感じた時にやっと、そうだ、遙にこそ何か買っていかなければならないという思いに辿り着いたのだった。
 思い出してよかった、と思った。セーターのお礼もしていなかったのだ。
 スカーフ売り場に引き返し、遙に似合いそうなピンクのスカーフを1枚買い求めた。
 思い切って、母のより高価な物にした。自分の中でのせめてもの罪滅ぼしだった。43へ

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2006年09月21日

小説・喫茶店

41
 せっかく楽しかったクリスマスイブなのに最後に遙をイライラさせてしまった。
 茂はその原因が自分にあることは分かっている。申訳ないと思ってもどうすることも出来ないのだ。
 たとえ長い間会えなくてもお互いに思いやる心が通じていれば、遙はもっと穏やかに生活が出来るだろう。遙の自分に対する強い愛情は痛いほど感じている。ただ、茂自身が遙を思う気持ちがそれ程強くないのはどうすることも出来ないのだ。
 遙は美人で、頭もいい。気配りも出来るし、頑張り屋でもある。女性としてケチのつけようがないほどなのだ。肌を合わせることも度々だが、その刹那は間違いなくとてもハッピーである。
 ただ、離れたくないとか、また会いたいとか、自分のことを何もかもさらけ出していいとか思う気持ちが全く湧かないのが正直なところだった。心のどこかにいつもバリケードを張ったところがあるのだ。
 遙は敏感にそれを感じ取っているのだろう。
 遙はまた、海の側で荒くれな漁師の世界で育ったせいか、とても大らかな性格なのだが、困ったことに普段でも大声で喋る癖がある。茂はそれを生理的にどうしても受け入れることが出来ない。
 しかしそれだけではない。人間が奥深くに持っている機微みたいなものが、余りにもかけ離れ過ぎているような気がするのである。
 一生を共に出来る相手ではないことは最初から茂には分かっていた。42へ

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2006年09月19日

小説・喫茶店

40
 ダンスパーティーは10時をもって終了した。スタッフにより、直ぐ様テーブルとソファーが、元通りにセットされた。
 そこでまた居坐って飲んでいる人もいたようだった。
 茂と遙はダンスですっかりエネルギーを使い果たしていた。どちらから言い出すでもなく当たり前のように2人はキャバレーを後にした。
 外はさすがに寒かったが、冷たい空気が却って心地良かった。
「これからどうする?」茂は予定を決めていなかった。ホントのところは踊り疲れの上、少し飲んだウイスキーの水割りが効いたのか眠くて仕方がなかった。しかし遙が楽しみにしていたイブをこのまま帰していいものか迷っていた。彼女に決めてもらうしかなかった。
「疲れたんでしょう?」遙は察したように応えた。
「うん、まあね」茂は素直に言った。
「帰りたいんでしょ?」
「そんなことはないけど」
「わたし、小久保さんのマンションに行ってもいいよ」
「えっ、それは…」
「じょうだんよ。……今夜は帰る」
 遙は茂が眠そうにしているのが分かっていた。でももしかしたら、今夜こそマンションへ連れて行ってくれるかもしれないといちるの望みをかけていた。それで思い切って自分から言ってみたのだ。でもやっぱりダメだった。
「じゃあ、明日また電話する」と遙は何でもないように明るく言った。実際、遙の方も十分疲れていたので、半分は早く家に帰りたい気持ちがあったのだ。
「今日は楽しかったよ。俺、月曜日から本所へ出張なんだ。そのまま御用納めでそのあと宮崎の実家へ帰ってお正月を迎える。明日あさってまでこっちに居るから」
「そうなんだ」遙はとたんに目が覚めた感じだった。急に寂しさと憤りが押し寄せてきた。
「じゃあ明日絶対会ってね」と思わず強い口調で言っていた。41へ

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2006年09月17日

小説・喫茶店

39
 遙はハイになったり落ち込んだりする自分の気持ちを持て余していた。
 茂の行動で一喜一憂するのは、もういやだった。今日は待ちに待ったイブではないか。
 楽しまなければ。つまらないことでへそを曲げて勝手に落ち込むのは愚の骨頂だ。楽しく楽しく。呪文のように心の中で繰り返した。
 それでも心のどこかで、茂の心を掴めないのがじれったくて、切なかった。
 
“蒼い館”というキャバレーは、娯楽施設が入っている集合ビルの3階にあった。
 普段並べられているテーブルとソファーが片付けられると、そこは広々としたダンスホールそのものだった。天井にはミラーボールが輝いている。
 その夜、会費5000円のダンスパーティーは盛況だった。
 六島は漁業の町でもある。普段の飲み屋街は、漁師は大事な客層である。特に船員たちが遠洋漁業から帰還した暁にはいっせいに飲み屋街へと繰り出す。彼らは金を惜しみなく使うので飲み屋街もとたんに活気付くのである。
 しかし、その夜の客層は比較的大人しく主にダンスを楽しむために集まっていた。
 フロアーはそんな若者の男女で沸き返っている。六島にもこんなに若者がいたんだ、と遙はホントに驚いた。
 それぞれがアベックで来ているのか、たいていペアで踊っていた。
 複数で参加しているグループは、相手を替えて踊っていたが、グループの中でのことだった。
 遙は最初から最後まで、ずっと茂と踊ることが出来た。曲はどんどん変わっていった。それに合わせてステップを踏み続けることは、一種のスポーツのようなものだ。時々休んでお酒を飲むこともあったが、たいてい2人は踊っていた。茂も心から楽しんでいると遙は確信していた。初めて心が通じているように思えた。遙にとってはめったにない満たされたひと時だったのである。40へ

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2006年09月15日

小説・喫茶店

38
 茂と連れの女性は話しに夢中だった。たとえ遙が側に行っても気付いてはくれないだろう。
 あたりは外灯やイルミネーションで十分明るかった。  時々顔を見合わせて笑いあう2人の様子が見て取れる。遙は声をかけようと思ったが、ついに機会を逸してしまった。
 マロニエの前まで来ると、茂は立ち止まり、じゃあ!と左手を振ってその連れの女性と別れた。女性は、じゃあね!と言って振り返ることなく立ち去っていった。茂はそのあと、ポケットからタバコを取り出し、火を点けると、おもむろにマロニエのドアを開け中へ入っていった。
 その間、遙はじっと待っていた。2人はきっと何でもないただの知り合いなのだ、と思えてきた。ホッとすると急に我に返った。あわててマロニエへ入った。
 店内はクリスマスツリーが飾られ、クリスマスソングが流れている。明るい気持ちが蘇った。遙はさっきのことはきれいさっぱり忘れようと思った。
「ごめんね、待った?」と、茂が座っているテーブルへ何食わぬ顔で近づいていった。
「いや、僕も今来たところ。……今夜はキャバレーへ行こう。ダンスパーティーがあるらしいんだ。久しぶりに踊ろう」
「ホント!嬉しい!…小久保さん、長いこと踊ってないでしょ」
「うん、身体動くかな」「それは大丈夫、小久保さん上手いから」
 遙は何気ない会話が好きだった。
「これ、クリスマスプレゼント、セーターよ。私が編んだの」
「えっ、僕に!君編物するんだ。…有難う。……でも僕何も買ってないよ」
 茂のことだからあり得ることと、内心期待はしていなかった。でも、ハンカチ1枚でもいい、茂からのプレゼントが欲しかった。だから、遙はちょっとだけ悲しかった。
「ううん、いいの、だって私が貴方に勝手にあげたいだけだから、…何も気にしないで。ホントに何もいらないから」
 心の中と反対のことを言っていた。

 茂は紙袋の中からきれいにたたんで入れてあったブルーのセーターを広げてちょっと見ていたが、すぐまた無造作に袋にしまいこんだ。有難う、とは言ったがあまり喜んでいる風には見えなかった。遙が思いに思って編んだセーターだったが、茂の反応はあっさりしたものだった。肩透かしをくらった感じだった。でも、感謝を強要するつもりは遙にはなかった。受け取ってもらっただけで良かったのだ。もしかしたら着てくれないのではとさえ思った。動揺するまいと思い顔はにこやかにしていたが、心の中は少しづつまたふさぎ込んでいくのを感じていた。39へ

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2006年09月13日

小説・喫茶店

37
 待ち合わせ時間は6時半。今夜はさすがにマイカーではなくタクシーを利用した。クリスマスだもの、お酒を飲まないわけにはいかないでしょう、と思ったのだ。
 どんなにゆっくりしようと思ってもどうしても行動が早くなる遙だった。マロニエの前に着き、時計を見るとまだ6時を過ぎたばかりだ。今日も早過ぎると思った。待つのは慣れっこだった。
 ただ、今夜は飲み屋街の通りがあまりにも華やいでいた。
 ここは、六島に1軒ある映画館も大きなキャバレーも全て集中している唯一の歓楽街なのだ。道路にまで飾られたイルミネーションに遙の心は子供のようにウキウキしていた。
 昔ほどではないがなかなか賑わっている。少しは景気もよくなったのだろう。
 遙はマロニエを通り過ぎて、その街の明かりに吸い込まれて行った。クリスマスの雰囲気を少し味わってみたくなったのだ。
 この時期、お客といえば、ボーナスをもらった公務員だらけだった。学校の先生もいるだろう。
 遙は、ふと知り合いに、会いそうな気がした。
 誰にも会わないうちに退き返そうとした時、向こうから歩いてくる男性に目が引きつけられた。茂に似ていると思ったのだ。なんと、それはやはり茂だった。
 えっ、うそ、小久保さん!遙は嬉しくて心臓が止まりそうだった。全く予期していなかったからか、こんなところで偶然会えたのがホントに嬉しかったのだ。
 しかし、次の瞬間、遙は路地に隠れていた。
 こともあろうに茂は横に小柄な可愛い女性を連れていたのだ。
 でもなぜ隠れたりしたのか。とっさのリアクションだった。冷静になると何も遙が隠れることはなかったのだ。
 今さら出て行くのは変だった。2人の後を付けるような形になってしまった。
 心の中に、俄かにさざ波が絶ち始めるのを、遙は抑えることが出来なかった。38へ

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2006年09月11日

小説・喫茶店

36
 12月24日イブ、明日は土曜日で茂も仕事は休みである。今夜はゆっくり出来ると遙は心が躍るのを抑え切れなかった。
 学校を5時前に早々と引き上げ1度自宅に帰った。それから化粧を直し、洋服もシルクのワンピースに着替えた。流行りの胸の開いたワンピースはベージュ色で遠目には肌と見分けがつかないのが、とてもセクシーだった。もちろんそれには流行りの短いボレロが付いている。ボレロはワンピースとセットになっており、スカートの裾模様と同じ若草色の小花があしらってある。それは、ベージュ色と絶妙にバランスが取れていて、全体的にはクリマスにぴったりな華やかなものになっていた。遙が思い切ってこの冬のボーナスで張り込んだものだった。

 その夜、遙は、お泊りでもかまわないと思っていた。
ただ、茂のマンションには、これまで1度も行ったことはない。茂の部屋を覗いてみたいという気持ちは多いにあるが、同じマンションに、遙の同僚の先生が昔から住んでいるのだ。しかも年配で独身女性なので、さすがに近寄り難かったのである。茂との話の中で偶然そのことが分かり、茂の方もそれを知っている。暗黙の了解で2人は何となくマンションで会うことを避けていたのかもしれなかった。
 遙は、とにかく明日は2人ともお休みで今日はイブ、今マロニエに行きさえすれば、彼に会えるという幸せに酔っていた。37へ

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2006年09月09日

小説・喫茶店

35
 12月24日、六島にある小、中、高、幼稚園と、学校はいっせいに終業式をして、25日からいっせいに冬休みに入る。
 遙はこの日を首を長くして待っていた。
 考えてみると、12月になって茂にまだ1度も会っていなかった。それは確かに、遙の方も、学校行事や忘年会、家族や親戚の行事等でとても忙しかった。
 でも、恋人同士なら、どんなに忙しくても、1目だけでもいいから会いたいと思うのが普通なのではなかろうか。
 もし、茂から会いたいと言われれば、遙は万難を排して会いに行くだろう。
 しかし茂から連絡はこなかった。
 だから、遙はいつも不安だった。茂に対して不信感さえ抱いた。いてもたってもいられず電話をした。定期的にメールも入れた。
 そんな時、決ってそっけない返事が返ってくるだけだった。
 茂の方も実際忙しかった。
 本土へ宿泊付き出張も何度かあったし、飲み会も多かった。
 そんな中で遙は、クリスマスイヴだけは、どんなことがあってもデートしようと、茂に約束を取り付けていた。茂は案外快くその約束を受け入れてくれていたのだ。
 その約束があったからこそ、遙は毎日をある程度平穏に暮らすことが出来た。
 その間、クリスマスのプレゼントにしようと、忙しい合間をぬって、茂のセーターをせっせと編んでいた。
 編物をする時間は唯一遙の気持ちを落ち着かせ、ほのぼのと幸せを噛みしめるひとときだったのである。36へ

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2006年09月07日

小説・喫茶店

34
「ふうーん、まさかその下宿のおばさんじゃないでしょうね」
「うふ、そのまさか」
「そうなんだ!よく聞く話だけど現実にあるのね」
「僕もそう思った。……バイトで遅く帰った夜があったんだ。僕を入れて4人の下宿人がいてね。下宿人の部屋が2階に全部あるんだ。大家さんは1階。居間に灯りが点いていたから、ドア越しに挨拶したんだ、ただいま、って。そしたら、奥さんがわざわざ出てきて、お帰りなさい、って言うんだ。いつもはそんなことはなかったから、あれって思ったら、ちょっと入ってと部屋に引きずり込まれたの。何か怒られるかと思って神妙に入ったよ」
「その奥さんて、何歳?」「40代半ばかな」
「ご主人、その時居なかったの?」「未亡人だったんだ」「なるほどね、…それで?」
「お腹へっていないか、とか、コーヒー飲まないか、とか優しいんだ。気がつくとお化粧していて妙に艶かしい態度をするの。しばらくするとソファーに座っている僕の横にぴったり寄り添ってきたんだ」
「それでそうなっちゃったの?」「そう!」
「好きだったの?」
「好きも嫌いもなかった。初めてだったから興味があっただけ。それから時々誘われるとやってたけど、だんだんイヤになって1年しないうちに下宿変わっちゃった」
「へえー、奥さん何も言わなかったの?」「4年間は付き合いたいと言われたけど、そんな暗い学生生活イヤだから」
「でも、そこで男にしてもらったんでしょ?お手軽でよかったじゃん」
「何だよ、その言い方。でもホントそのことは教訓になってる。それ以後、遊びには不自由しなかったんだ。既婚者はリスクを背負ってるから、金は出してくれるし、もともと結婚する気はないから、遊ぶにはもってこいなのさ。ダンス教室で若い奥さんとも付き合ったしね」
 ここまで赤裸々に告白されることは、夫との間でも考えられないことだった。それなのに、みどりは当たり前のように聞いていた。違和感はない。いったいこの関係は何なのだろう。
「あなた、そんなこと、彼女に話すの?」
「とんでもない。むしろ結婚しても自分の奥さんには絶対言えないこと」
「…それを何で私に?」
「だから、不思議なんだ、保坂さんには何でも言えちゃうから」
 みどりは複雑な気持ちだった。軽く見られているのだろうか。それとも信頼されているのだろうか。
 とにかく2人の間が急速に近まったことは事実だった。ただ、それと同時に、異性に対するドキドキ感もなくなっていった。何でも言い合えるきょうだいの様なものかもしれないと、みどりはかってにそう思った。35へ

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2006年09月05日

小説・喫茶店

33
 みどりは茂の生き方に対して、決して賛同するわけではなかった。かといって、茂に対する好ましい思いが消えたわけでは決してない。むしろ、この私にこんなに打ち解けて話してくれていると思うと、そのことがとても嬉しかったのである。親近感がぐっと深まった感じだった。
 身体を少しずつ離していったのは、自分自身にブレーキをかけるためだった。
 みどりは、この場の状態で居ることに、長居は無用、という思いにかられていた。ところが一方ではもうちょっと話していたいという気持ちもある。
 茂の魅力は外見上かっこいいということもあるが、1つはバリトンの甘い声である。低音でゆっくり、しかも標準語で語りかけられると、たいていの女性はポーとなるのではなかろうか。
 みどりも例外ではなかった。このまま居たいという気持ちと、帰らなければという気持ちが心の中で葛藤していた。
 茂を見ると落ち着き払っている。腰を上げる気配がいっこうにないのだ。

 しばらく沈黙の時間が流れた。
 心地良い茂の声を聞いている時は、瞬く間に時は流れていくが、沈黙の時間は、みどりにはひどく息苦しかった。
 居たたまれなくなったみどりは「そろそろ帰ろうか」と、思い切って立ち上がった。
「もう、ちょっとだけいい?」
 茂の優しい太い声は、みどりの決心を簡単にねじ伏せた。
「僕ね、大学は広島だったんだ。最初に女性の身体を知ったのは大学に入ってすぐ下宿生活を始めた時」
 みどりの気をひくためにか、場を盛り上げるためにか、茂はそんな身の上話を語り始めた。
 ―ま、いいか― みどりは、いったん上げた腰を再び下ろしてしまった。
 若い男性から、こんな打明け話など聞くことがなかったみどりが、何かおもしろそう、と内心多いに興味を持ったのは、無理からぬことではあった。34へ

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2006年09月03日

小説・喫茶店

32
「今付き合っている彼女、六島の人なんだ。ここに赴任してからだから、まだ半年くらいかな」
「やっぱ役所関係の人?」
「いや、ダンス教室で知り合ったの。小学校の先生」
「あら、ステキじゃない!どんな人?」
「どんな人って、普通だよ。まあ、スタイルはいい。それに美人だろうな」
「ふうん。…1つ聞いていい?」
「小久保さんさあ、こんなにハンサムなんだもの、六島に来るまでは彼女いなかったの?」
「いたよ。でも転勤が決った時、別れた」
「あら、そんなもん」
「うん、そんなもん。今の彼女だってそうだよ。六島を出る時は別れることになると思う」
「ああー、…偉いね、プラトニックな交際なんだ」
「いや、違うよ。今の女性はそんなうぶじゃないよ。時々男の方が戸惑うほどそっちの方は積極的だし…。それに僕が今付き合ってる彼女、その方が好きみたい。僕が求めると、口では、イヤだ、そんな軽い女じゃないようなこと言うんだ。その割りには、車にはいつもシートとタオルケットを積んでいて、いざという時はそれを用意するんだ」
「いざという時って?」
「ほら、海岸なんかでデートしていて、気分がお互い盛り上がってそういうことになるだろう?そんな時」
 みどりは、唖然としていた。ここまであからさまに話してくれなくても、と思ったのだ。茂の彼女が気の毒だった。男って、こんなことまで誰彼かまわず話すのだろうか。特にクールで紳士的だとばかり思っていた茂が…。
「ねえ、小久保さんのこと無口だとばかり思っていたのに、そんなことまで話すなんて」
「そうぉ?保坂さんが身内のような気がして自然に喋れちゃうんじゃないかなあ」
「びっくりよ、こんな言われようじゃ彼女が気の毒よ」
「保坂さん、年上でしょ!それに結婚しているし、気を許してるんだ」
 比較的広い風呂敷を敷いた上に2人は少し間を置いて座っていた。
 小さな声で夢中になり話しているうち、いつの間にかぴったり寄り添った形になっていた。
 みどりは、はっと気がつき、分からないように茂から身体を少しずつ離していった。33へ

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2006年09月01日

小説・喫茶店

31
 12月中旬とはいえ、今日みたいに晴れた日は、日本の西の端、特に内海に面した松の江地区は、寒さもそれほどではなかった。むしろ日だまりの中は小春日和の陽気だった。
 茂とみどりは、白く輝いている砂浜に風呂敷を敷いて座っていた。
 目の前の波打ち際で、さざ波が小さい白しぶきをあげて、規則正しく寄せたり引いたりしている。
 青い空、透明な海水、沖にいくと海の色がはっきりと紺碧に変わっている。干潮時の今、砂浜はどこまでも白く続いていた。
「きれいだねー、それに静かだねー」
「何だか時が止まってるようね、みんなどこかであくせく働いているなんて思えないよ」
「ほら、あの岬の先端に建っているのが松の江崎灯台だよ!国立公園の中に入ってるんだ」
 と、茂は指をさした。折しもかもめが2〜3羽飛び回っている。
「まるで絵のような景色だわ。これって将来きっと思い出すと思わない?出張帰りに寄り道して見た光景として」
「そうだね、こんないい場所に2人しか居ないなんて。田舎なんだね、人そのものが居ないんだよ、この辺、人家も無い所だから」
「それもあるだろうけど、ウイークデーでしょ!それに昼間だし、みんな働いているのよ。……ここで殺人が起きても2〜3日はきっと分からないね。日曜日には遊びに来る人もいるだろうけど普通は人が来ないだろうし、なかなか見つからないかもね」
「そんなことはないだろう、夜にはきっとアベックが来るよ」
「あら、小久保さん来たことあるの?」
「えっ僕?そりゃあね、でもここには来たことないよ。近場でもきれいな海岸たくさんあるから」
「彼女いるんだ!小久保さんハンサムだもんね、いない筈ないよね」

 茂とみどりは途中昼食を済ませていた。その後はそのまま職場に戻る予定だった。
 旧六島市と松の江町の間は、舗装された道路が海岸線に沿って繋がっている。もともと天候がいいと、車窓から見る海の美しさは格別なのだ。
 往路では話に夢中になり、その美しい景色も目に入らなかったのだ。
「きれいねー、海」と思わずみどりの口から出るのも当然だった。
「ちょっとだけ休んで行こうか」茂はみどりから発せられた言葉でとっさにそう思いついた。
 舗装された真新しい道路は広々としており、路肩もゆったり設けてある。
 茂はスーと車を止めた。
 そして今、はた目には、まるで若い恋人同士のように、誰も居ない砂浜に座り、2人は他愛の無い話をしているのである。32へ

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2006年08月30日

小説・喫茶店

30
 お昼の12時半頃茂は松の江支所に戻ってきた。
 ロビーの椅子に座っているみどりを見つけると、茂は離れた所から目で合図した。
 みどりは頷いて、茂の後を追った。
 これって何だか恋人同士みたいだとみどりは思った。
 なぜなら、茂は目で合図しただけで後は振り向きもせず、さっさと1人車へと向かったからだ。
 みどりが付いて来ていると信じきっているようだった。その馴れ馴れしい動作が、嬉しいようで、腹立たしいようで、でも後ろめたい気持ちが1番強いのは、みどりにやましい気持ちがあったからかもしれない。
 出張先でたまたま一緒に食事するのは、よくあること。別にどうってことはないのだ。意識するのがおかしいのではないか。みどりは苦笑いするしかなかった。
 みどりが車に乗り込むと、茂はホッとしたようだった。
「村木さんに食事誘われたけど、断ったんだ。顔を合わすとまずいかなと思って……。ごめんね」
「えっ、何が…、ちっとも」
「いや、ちょっと急がせたから。……僕も今日の仕事もう終っちゃった。これから帰ろう」
「えっ、うそ!無理したんじゃ?…」
「そんなことない、帰り道に食堂があるから、そこで食事しよう」
 普段、無口だとばかり思っていた茂が、とても雄弁だったこと、クールでシャイでいつもよそよそしいと思っていたのに、とても優しかったことに、みどりはホントに驚いていた。今日だって、私のために、早めに仕事を終らせてくれたのではなかろうか。みどりはふっとそんな思い上がったことを考えた。でもまさかそんなことは在りえない。すぐ打ち消した。31へ

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2006年08月28日

小説・喫茶店

29
 松の江支所に到着しても2人は話し足りないくらいだった。
 いわゆる意気投合してしまったのだ。
「これから僕、ここの村木係長と現場に行くんだけど、保坂さん仕事、何時頃までかかる?」
「わたし?お昼には終ると思う。でも、小久保さんが終るまで、ここで時間つぶしているから、帰りもよろしく」
「わかった。お昼にここへ帰ってくるから食事、一緒にしよう」
 茂とみどりはそう約束して、松の江支所のロビーで一旦別れた。
 松の江から旧六島市内までは、朝夕1台ずつしかバスが通っていないのである。みどりは否が応でも、茂の車に乗せてもらうしかなかった。しかし、それは返って楽しいことでもあった。
 みどりにとって、夫以外の男性とこんなに親しくは話したことは初めてのことだった。
 それに、夫以外の男性に、ちょっとでも、ときめく気持ちを持ったのは、今までには考えられないことだった。それは例えば盗みはいけないことだと、子供の頃から自然に植え付けられているのと同じように、あってはならないことと、心にしみついているからだろう。
 もし、夫以外の男性を好きになれば、地獄に落ちることは分かっている。子供たちと別れることは死んでも出来ない。夫が嫌いな訳ではない。夫を裏切れば、夫が自分を裏切ることも許さなくてはならない。夫婦の信頼関係が崩れるのだ。そんなことは耐えられないことだった。
 そんなリスクを考えると、誰だって結婚すると他の異性を好きになるはずはないものと思っていた。現に今まで他の男性を、異性として好きだと思ったことは1度もなかった。
 しかしこれは、他の異性に好意を持つという感情に、固く鍵をかけているせいだとみどりはふとそう思ったのである。
 そして今後も、この鍵を絶対開けてはいけないのだと、自分に強く言い聞かせた。また、そんな度胸も勇気もみどりにはなかった。
 でも、今、みどりはちょっとばかり、ときめいていた。
 話すのを楽しむくらいは許されるのではないか。
 だって、単にこれは友情なのだからと、思ったのだ。30へ

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2006年08月26日

小説・喫茶店

28
 茂とみどりは、茂がみどりの長男にジュースを買い与えたりしたこともあったが、その後も会話らしい会話をしたことはない。ただ、朝夕、茂が事務所に立ち寄る際、挨拶だけは欠かしたことがなかった。
 ドアを開けて部屋に入ると、茂はなぜかみどりの席を確認するのが癖になっていた。そんな時不思議なことにみどりとよく目が合った。
 偶然だろうか?もしかしたら、ドアを開けて自分が入ってくるのを、みどりも待っているのではなかろうか?その証拠にいつもにっこり笑ってくれた。
 毎日このアイコンタクトを続けていると、みどりの存在が徐々に、まるで、いつも自分の帰りを待ってくれている優しい母のように思えてきたのである。言葉を交わさなくとも、みどりの笑顔は、茂にとって一瞬でもほっと出来るオアシスのような存在だった。

 運転席の茂と助手席のみどりは共に雄弁だった。1時間余りの行程を、茂もみどりもどこをどう通り過ぎて来たのか覚えていなかった。ずっと昔からの知り合いだったように、会話が湧き水のようにあふれ出てきた。
 子供のこと、仕事のこと、何の関係もない茂に、どうして無防備に話すことが出来るのだろう。みどりはふと冷静になると、急に恥ずかしくなった。
 しかし、茂も、自分の生い立ち、仕事に対する思い、趣味など、そんなことまで言わなくていいよ、と思うくらい話をしてくれる。ホントに自然に2人は話に夢中になっていた。
 会話は、目的地である、合併前は松の江役場だった六島市松の江支所へ到着するまで、途切れることはなかったのである。29へ

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2006年08月24日

小説・喫茶店

27
 茂の仕事はたいてい現場歩きである。小型四輪駆動の公用車は茂の専用車なのだ。乗り心地は決して良いとはいえないが、茂はけっこう気にいっている。
 12月に入って、茂が席を置いている総務課も何かと気忙しかった。
 その日、茂が出勤すると、総務係が何かもめているようだった。茂には関係ないことだったが、聞くとも無しに聞いていると、公用車使用の出張が重なっているようで、日程をどちらか変更出来ないか、というようなことである。
 職員行動表の掲示板を見ると、一方の職員の行先は茂がこれから行こうとしている町である。
 差し出がましいと思ったが、茂は「僕の車に同乗してもらっていいですよ」と声をかけていた。ホントはあまり好ましくない行動だった。仕事はシビアなものだ。事情はどうであれ、管轄外のことは責任取れないからだ。
 しかし、同じ町に行く職員は保坂みどりだった。
 それを見た時、茂の心にパッと花が咲いたような不思議な感覚が一瞬通り過ぎていったのだ。とっさの判断だった。他の職員だったら、声をかけていなかったはずである。28へ

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2006年08月22日

小説・喫茶店

26
 遙は週1回のダンス教室を楽しみにしていた。ダンスの腕前がメキメキ上達していたこともある。若くてスタイルがいい遙は、今では教室の広告塔のような存在だった。
 そんな遙にとって、茂が最近この教室に顔を出さなくなっているのが、重大な不安の種だった。
 それでも、当初の頃の茂は、教室のある火曜日にはダンスにこそ来なかったが、遅くなってもマロニエには顔を出していた。
 そんな日は2人は食事をし、夜の海へ行ったり、島に一軒ある映画館へ映画を観に行ったりして、それなりのデートを楽しんでいた。
 その間、遙は何度となく、「日曜日に家へ遊びに来て?母も会いたがってるから」と誘っている。その度に、用事があるからとはぐらかされ続けて来た。
 遙には煮え切らない茂の態度がとても腹立たしかったが、そのことを問い詰めれば2人の仲が簡単に終ってしまいそうで恐かったのだ。怒ることは出来なかった。
 そして茂は、徐々に火曜日にマロニエにも顔を出さなくなる日が多くなった。
 遙は、そんな時、私はきっと遊ばれているんだ、と思った。思わざるを得なかった。
 胸の中はキリキリと痛み地団駄を踏む思いだった。それでも怒れないのは、このまま会えなくなるのが、遙には一番辛いことだった。
 茂から、別れよう、と言われた訳ではない。
 じっと我慢して、茂がこっちを向いてくれるように仕向けるしかないように思えた。
 もうすぐ、クリスマスというのに、遙は砂をかむような思いの毎日を送っていた。
 ただ1つ救われるのは、昼間接する元気な子供たちの笑顔だった。27へ

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