2012年05月02日

ミニミニ小説・ステテコbX

bX
 翌月曜日、勇太郎は、みどりが用意したトーストと牛乳で朝食を済ませると、みどりが「こんな状況で出社するの?私は休むよ。あなたも休んでよ」と言うのも聞かず、1人でさっさと歩いて出社した。
 国道は遮断されていたし、周辺の道路は跡形もなく土砂に覆われていた。
 土砂の山を踏み分けて徒歩で会社に行くとなると、2時間はかかる道のりだった。
 夫はなぜそこまでして会社に行くのだろう、とみどりは不思議に思った。
 そしてその夜、「歩いて帰って、また明日歩いて会社へ来るのは大変だから、しばらく会社の近くのビジネスホテルに泊まるよ」と、勇太郎から電話がかかってきた。
 「私も同じ条件よ。なんであなただけ楽するわけ!子供たちはどうなるの?水汲みは?」
 みどりがまくしたてるのを全部きかず、勇太郎は電話を切った。
 その日以来、勇太郎が自宅に戻ることはなかった。
 その代り、豪雨の夜に泊まっていった図書館長と名のる男性が訪ねてきた。
 「あの夜のお礼です」と言って、カステラと新品のステテコをみどりに渡した。
 下着は他にも貸したような気がしたが、どうでもいいことだった。
 ただ、なんでステテコだろう?と思った。
 図書館長は「どうか、あの夜のことは口外しないでください」と念をおして、帰っていった。
 そんなことは既に、みどりの頭になかった。
 本当は、豪雨がもたらした未曽有の惨事より、勇太郎が帰って来ないことの方が大事件だった。
 あの夜、勇太郎の身の上にも何かが起こったのだ。
 そのことで、みどりと子供たちの身の上に、確実に不幸が舞いおりてきたのだ。
 世の中には信じられないことが、ほんとうに突然起きるのだ。
 この先、自分と子供たちの人生は、いったいどうなっていくのだろうか。
 みどりには見当もつかなかった。
 ただ、1日1日をクリアしていくしかなかった。
 うず高く積っていた土砂が、日1日と片づけられていくように、みどりも、自分に降りかかった不幸が日1日と和らいでいくのを待つしかなかった。
 「この新品のステテコ、もう必要ないなあ」という思いがみどりの頭の中をよぎった。
 その時、すっと寂しい風が吹き抜けるのを、みどりはどうしても拭いさることが出来なかったのである。
                 完

 (カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載してきましたが、今回で終了しました)





posted by hidamari at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月27日

ミニミニ小説・ステテコ bW

 不可解な侵入者2人が帰った日の夕方、夫勇太郎は影のように音もなくスーとマンションの玄関に現れた。
 みどりはその姿を見て思わず抱きついた。自分でも思いがけない、素直な気持ちの表れだった。
 「無事でよかった、いったいどこにいたの?」
 でも、勇太郎は何か変だった。それは玄関に入って来た時から感じていた。嬉しくて抱きついてしまったみどりを「うん、ちょっと」とだけ言って、無意識に突き放したのだ。
 えー、突き放すの?とみどりは、その反射的な夫の態度に、少なからず傷ついた。
 何もかも変った町の様子も、昨夜の豪雨のことも、勇太郎は口にしなかった。まるで感情を失った記憶喪失者のようだった。
 「うん、ちょっとは、ないでしょう。私がどれだけ心配したか、なんで連絡もしないの?」
 勇太郎のそっけない態度に、みどりは改めて腹が立ってきた。
 その日は土曜日だった。
 「俺、ずっと歩いてきたから、すごく疲れている。寝る。やることがあったら明日やる」
 そう言うと勇太郎は寝室へ逃げるように入りこんだ。
 その日から、勇太郎はすっかり別人だった。
 妻のみどりに対してだけではなく、娘たちユリとミキに対しても、まともに感情を表すことはなく、まるで他人のように接した。
 勇太郎の中に何かが起きていることは分かったが、いったいそれが何で、何の理由でそうなっているのかが分からなかった。
 不安で、気持ちばかりが高ぶった。それを抑えることが出来ず、ただヒステリックに勇太郎を責めた。
 そして家事を見つけては言いつけた。
 勇太郎は、みどりに言われるままに、給水車へ水をもらいに行ったり、買物へ行ったりした。
 しかし、出張の日程のことや豪雨の夜のことを、どんなに聞いてもまともな回答をすることはなかった。
 翌日曜日も、みどりは勇太郎を責め続けた。
 勇太郎は「別に何もない」と、答えにならない返事をするばかりだった。bXへ
 (カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載

posted by hidamari at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月19日

ミニミニ小説・ステテコbV

bV
 夜が明けるのを待ち構えて、みどりは外へ出た。
 雨はすっかり止んでいたが、目のあたりにする周りの景色は一変していた。
 川は、水嵩は減っていたが、ガレキや家財道具、生木まで積み上げられて、川の態をしていなかった。
 山手一帯は、鉄砲水の被害を受けていた。
 家屋は崩壊され、家財道具も道路も畑も土砂で埋まった。
 住人は避難していて、大かたは無事だった。
 しかし痛ましい犠牲者もいた。
 小学生と中学生の姉妹が逃げ遅れて亡くなったという話は、みどりにとって身につまされる悲劇だった。その小学生の妹は、娘のユリと同級生で仲良しだったのだ。
 姉妹の母親は、しばらく正気を失ったほどの気の落としようだった。
 夏休み中というのもあって、たまたま母親が職場の慰安旅行に出ていた。
 父親は職場から帰る途中だった。
 道路が崖崩れで寸断されたため、家にたどりつくことが出来なかったのだ。
 姉妹は父の帰りを待って、避難が遅れていたということだった。
 みどりが、夜が明けて真っ先に目にしたのは、国道に則した山が崩れ落ち、山肌をあらわにしていた光景だった。
 後で分かったのは、その崩れた山塊は国道を崩壊し、国道下にある人家を襲った。
 そしてその家では、前日娘たちが孫を連れて泊まっていた。その家族全員9人が土砂の中に埋まり、尊い命を失くした。
 結局その長崎大水害で、299名の尊い命が奪われた。
 それは、悪夢としかいいようがない、大惨事だった。
 みどりの家に泊まった不可解な侵入者2人連れは、その朝、「これから歩いて帰ります」といって、土石の積った道をかき分けて帰っていった。bWへ
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載

posted by hidamari at 23:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月05日

ミニミニ小説・ステテコbU

bU
 みどりは夫のことが気にかかっていたが、携帯電話も固定電話も通じなくなっていては、どうしようもなかった。
 夫も、どこか知らない家で世話になっているかもしれないと思った。
 明日になり雨が止めば何か連絡があるだろう。
 雨は止みそうになかった。
 娘2人のために、みどりは自分と侵入者2人のいる居間に、1枚敷布団を敷いてやっていた。2人は寝転がっていたが、そのうちに眠ってしまった。
 「子供部屋に敷布団を持っていきますから、そこでお2人は寝てください」と、みどりは侵入者に告げた。
 「こんな時ですから、敷布団1枚でいいですよね。タオルケットは2枚用意します」と言った。
 「すみません。私だけそちらに移ります。彼女はここで寝させてください」と男性が、申し訳なさそうに言った。
 女性は戸惑っていたが、
 「私には布団は必要ないです。ここにそのまま横になりますから」と、言った。
 みどりは、男性に対して、「こんな非常時に体裁ぶるのはよして」と思った。なんでそんなことにこだわるのだろうかと、かえって不思議だった。
 「どうぞ、いいようにしてください」と言って、子供部屋に敷き布団とタオルケットを運んだ。
 ロウソクと懐中電灯の中で、侵入者と気まずい一夜を過ごした。
 男性はしっかり眠ったようだったが、みどりと女性は話しこそしなかったが、殆ど眠れない夜を過ごした。
 とはいえ、さすがに朝方になって2人は揃ってまどろんでいた。bVへ
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載

posted by hidamari at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

ミニミニ小説・ステテコbT

bT
 「突然すいません。決してあやしいものではありません」
 それは男性の声だった。
 抵抗する暇はなかった。あれっという間に男はドアをこじ開けて中に入ってきた。
 「実はもう1人連れがいるんです。ここへ呼びます」
 男性はみどりの返事を待たずに、ドアから顔を出して「おーい」と呼んだ。
 すると、どこからともなくすっと黒い人影が現れた。女性だった。
 人の会話を聞きつけたユリが、大きな懐中電灯を持って玄関へ出てきて2人を照らした。
 男性は、60歳前後の公務員か教師ではないかと思える風貌の、実直そうな紳士に見えた。
 女性は、50歳前後で、専業主婦というのではなく、勤め人、それも事務系の仕事をしている人のように見えた。
 みどりは、危険な人たちではないと思い、いくらかホッとした。
 「この先の国道で崖崩れがありまして、走行していた車が動かせなくなりました。乗り捨ててやっとここまで歩いてきたのですが、もう身動きができません。避難するところも分かりません。それで今夜ここに泊めてはいただけないでしょうか。お願いします。どの家も戸締りがきつく、開けてもらえなくて」
 男性は、この家に入れてもう安心だという風に、女に「良かったね」と、言った。
 承諾したつもりはなかったが、この雨の中追い出すわけにもいかず、みどりは2人を家にあげた。
 下着までずぶ濡れになっていた2人は、着替えを貸してくれと言った。
 男性には、夫のものを一揃い用意した。
 男性は「ステテコも貸してください」と、言った。
 男性は、濡れたものをハンガーに丁寧にかけて干した。
 とても几帳面だった。
 それに引き比べ、女性は、バスタオルで拭いただけで、自然乾燥に任せる風だった。
 男性は、少し落ち着いたのか、みどりに名刺を差し出した。
 市の図書館長という肩書があった。
 しかし、女性のことは何も紹介がない。
 奥さんと分かり切っていたが、「奥さんですか?」と、何気に確認した。
 「いえ、知り合い…、いえ、親戚なんです」と、男性がしどろもどろに返答した。
 ろうそくの灯りだったが、侵入者2人の気まずい表情が取って見えた。
 ラジオからは、土砂崩れや鉄砲水の被害現場から助けを求める電話の声が、狂ったように聞こえていた。bUへ
 (カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載

posted by hidamari at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月15日

ミニミニ小説・ステテコbS

bS
 勇太郎のことはこれ以上心配しても仕方なかった。
 ただ、胸の中のモヤモヤとイライラ感は、降りしきる雨音のせいか、勇太郎の謎めいた行動のせいか分からなかった。
 部屋の中は真っ暗だった。
 水道の蛇口をひねると、もう水も出なかった。
 きっとガスも止まっているだろうと思い、それは試すこともしなかった。
 下手にいじると復旧した時、ガス栓が開いていたら、大変なことになると思ったからだ。
 ユリとミキが懐中電灯を取り合っている。
 「こんな時に喧嘩は止めなさい」と、みどりはヒステリックに叫んだ。
 「お手洗いに行きたいのに、ミキが懐中電灯を渡さないの」
 ユリは泣きそうな声を出した。
 「ミキ、お姉ちゃんに渡しなさい」
と、みどりがピシャリというと、「ハーイ」と、ミキは素直に従った。
 しばらくすると、トイレの中から「ママ、トイレの水、出ないよ」という、ユリの声がした。
 「仕方ないでしょう、そのままにしておきなさい」と、答えるしかなかった。
 今この暗闇の中で、携帯ラジオの声を聞くことだけが、外界と繋がっている感じがした。
 寝るには早すぎた。時計の針は8時を過ぎたばかりだった。
 居たたまれなくなったみどりは、すごい雨の降る様子をこの目で見たいと思い立った。玄関のドアを恐る恐る開けてみた。
 ほんのちょっと開けたその時だった。
 どこからともなくすっと黒い人影が現れ、その片足がグッとドアの中に入りこんできた。
 一瞬何が起きたのか理解出来なかったが、恐怖で息が止まりそうになった。(bTへ)

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載

posted by hidamari at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

ミニミニ小説・ステテコ bR

 「えっ山田君?私小田です」
 「あ、小田先輩の奥さんですか?」
 「あのー、福岡からは夫と一緒に帰って来られたんですか?」
 山田君はちょっと戸惑っていた様子だったが、
 「えっ? あのー、先輩とは昨日博多で別れましたが…。 何か、親戚の家へ行くと言っておられましたが…」
 「じゃあ出張は昨日までで?」
 「はい、先輩は1日休暇を取られまして…」
 「そうだったんですか。分かりました。親戚の家へ連絡してみます。この雨で、まだ帰ってこないので… すみませんでした」
 「ご心配ですね」
 山田君は、何かを感じたのか、申し訳なさそうにそう言った。
 みどりも、妻である自分が何も聞かされていないことを山田君に知られたことに、言い知れぬ屈辱感を感じていた。
 勇太郎は何かを隠している、とみどりは悟った。
 確かに福岡に親戚が居ることはいる。が、そんなに親しく行き来している訳ではない。用もないのに休暇まで取って、訪ねたり、ましてや泊まったりするはずがなかった。
 この豪雨の中、危険な目にあっているのではという当初の心配は吹っ飛んだ。それより、いったい今どこで何をしているのだろうかという、得体の知れない不安がモクモクと湧きあがってきた。その胸のイライラを抑えることが出来なかった。
 2人の娘が「ママ、パパは今何処にいるの?」と、無邪気に聞いてきた。
 みどりは優しく返事が出来る気持ちではなかった。
 「電気が消えないうちにシャワーを浴びて早く寝なさい」
 と、怒鳴りつけていた。
 さっきから点いたり消えたりしていた電気がついに停電になった。
 外は狂ったように豪雨が降り続いていた。
 こんなにひどい雨なのに、連絡をしてこない勇太郎。家族のことが気にならないのだろうか。
 勇太郎が今置かれている状況を、いろいろ推し量ってみたが、みどりには一向に思い当たることがなかったのである。bSへ
 
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

ミニミニ小説・ステテコ bQ

 6時30分頃から降り出したゲリラ豪雨は、その名の通り空から襲ってくる戦闘機の大群のような迫力だった。
 窓の外は、いつもの景色ではなかった。ただただグレー一色だった。不思議なことに雨が降り出す前よりあたりはパアーッと明るかった。
 みどりは、さっきからかけている夫の携帯が繋がらないことが心配だった。
 この雨では、たとえJRで福岡から長崎駅に着いたとしても、自宅までの足が確保できないだろうなあ、と思った。
 玄関ドアを開けて、廊下に出て外の様子を手摺越しに見ると、そこは驚くべき世界だった。
 20メートルくらい向こう側を流れる川が、正に氾濫しようとしているではないか。
 もうこれはただごとではなかった。
 大災害が起こる前兆だった。
 みどりは、電気もガスも水道も電話も、今に止まると思った。
 急ぎ部屋へ戻り、まっしぐらに固定電話の前へ行った。
 夫が、今度の出張は後輩の山田君と一緒だ、と言っていたのを思い出したからだ。
 住所録から山田君の自宅の電話番号はすぐ分かった。
 彼の家に電話すれば、何かの情報が得られる気がしたのだ。
 「ハイ、山田です」
 電話に出たのは山田君本人だった。
 みどりは、一瞬耳を疑った。
 まさか、山田君が既に家に帰っているとは、夢にも思わなかったからだ。bRへ
 
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

ミニミニ小説・ステテコ bP

 その日午後5時前、長崎県全域に大雨洪水警報が気象庁から発表された。
 みどりは勤務先の大学の事務室でその情報を聞いた。
 構内に残っている学生に、帰宅を促す緊急放送が流れた。
 職員の中にはバタバタと慌てふためいて帰宅する者もいた。
 何しろ雲行きがあやしくなっている程度だったので、またいつものように警報はそのうちに解除されるのではと、心のどこかで楽観的考えていたみどりは、いつものように退庁時間まで仕事をした。
 とはいえ、静まりかえった構内が不気味で、さすがに不安になり急ぎ足でバス停に向かった。
 8月の午後5時といえば、普通はまだ昼間の体なのに、今すっかり夜のような暗さだった。
 異様な雰囲気だった。
 これは間違いなく大雨がくる、その時みどりは確信した。
 バスを待つ時間がもどかしく、たまたま通りにいたタクシーに飛び乗った。
 はらはらしながら自宅マンション近くに着いた時、まだ雨は降ってこなかった。
 近くのスーパーで電池とペットボトルの水を確保した。
 夕食の食料も買ってマンションの3階に着いても、まだ雨は降ってこなかった。
 バスタブに急いで水をはり、キッチンの洗い桶やポリバケツにも水を入れた。
 小学6年生のユリ、1年生のミキ、2人の娘たちも家に帰っていた。
 夫の勇太郎だけがいなかった。
 勇太郎は福岡に出張して3日目で、今夜帰宅予定だった。
 みどりが夕食の準備に取りかかった時、突然大粒の雨が降り出した。
 それは部屋の中にいても分かるくらいの、けたたましい雨音だった。
 テレビの時報は6時30分だった。しきりに気象情報を流している。bQへ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月27日

ミニミニ小説・牡丹 bR8

 まるでそれは死の底から聞こえてくるような悲しい響きだった。そしてそれは隣のベッドの美也子さんのすすり泣く声だった。
 アサミはそれで目が覚めた。室内はすっかり朝モードだったし、うっすらと明るかった。アサミは朦朧とした中だったが、城ノ内だと思ってしっかり抱きしめていたのは、抱き枕だったことに気が付いた。
 「先生!」…夢だったのだ。
 なるほど、と納得して、おもむろにその大きな抱き枕を横に置いた。
 面映ゆかったが、身体にはまだ城ノ内の余韻があった。夢だと分かっても幸せな気分だった。
 枕元には読みかけの「薔薇と牡丹」という小説本があった。薔薇と牡丹という名前の美人姉妹が数奇な運命を辿るという物語である。昨日の昼間読んでいた本だった。
 牡丹…、なるほど良い名前かもと思った。赤ちゃんは女の子と既に分かっていたから。
 それにしてもリアリティーな夢だった。
 ただ、アサミは城ノ内のことなど、今は何とも思っていない。もちろん、城ノ内がアサミのことをどうこう思っているはずもない。確かにアサミは、一方的に彼に熱を上げていた時もあった。あの日一夜限りの関係を持ったことを決して後悔はしていないが、お互いが燃え上がって結ばれた感覚ではなかった。儀式のようなものだった。
 今考えれば、その時授かった命は、ただ幸運だったとしかいいようがない。
 人工授精が1回で成功したようなものだ。
 永遠に父親の存在を明かすつもりはない。
 夢の中の出来事は、アサミの思いが導いたことなのだ。
 幸せで不思議なお告げだった。
 その日の夕方、美也子さんは、旦那さんが迎えに来るのを待って、悲しそうな笑顔を残して退院していった。
 その後ベッドの布団を片づけにきた看護師さんが、彼女が今日未明に、流産したことを教えてくれた。
 アサミも他の2人も、そのことは予想していたことだった。
 それで、その日ずっと病室は沈んでいた。
 「2度目だから、旦那さんもそれはがっかりして、とてもお気の毒でした」と、看護師さんは淡々と言った。
 アサミは、自分は元気な牡丹に会えるのだと思った。
 もしかしたら、美也子さんより自分の方が幸せなような気がした。
   完

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載してきましたがこれを持って終了しました)

posted by hidamari at 22:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月26日

ミニミニ小説・牡丹 bR7

 アサミはパニックになった。ただごとではない。誰かを呼ばなければと呼びボタンを押そうとするが、手が動かない。「助けて」と叫ぶが声が出ない。
 「しー!静かに!俺だよ、城ノ内」と、その男性が低い声で言った。
 アサミにはとても信じられなかった。
 「何で先生がここに?」
 顔を見たいが、暗くて見えない。
 灯りを点けようとするが、手が動かない。
 「心配しないで!お見舞いに来たんだよ」と言いながら、城ノ内はずかずかとベッドに上がってきた。暗闇の中で素早くアサミの身体に覆いかぶさり、両手を頭の横に立て、腕立て伏せをするようにキスをした。
 何が何だか分からぬまま、アサミは、なされるがままにするしかなかった。そのうちに城ノ内はアサミの身体の上に、自分の上体を預けた。
 「赤ちゃんが潰れる」と思ったが、意外に苦しいこともなく、むしろ心地良いのが不思議だった。身体の芯がじわじわと熱くなっていった。抑えきれず自分から城ノ内の身体を引き寄せた。身体が喜びに震えるのを感じた。
 「お腹の赤ちゃんは僕の子供だろう。ちゃんと分かっているんだよ」と、耳元で優しく城ノ内が言った。
 「いいえ、違います」アサミはきっぱり否定した。
 「いいんだよ、何も言わなくても。ただ、もし女の子だったら、「牡丹」て命名してね。珍しい名前だから、後年逢うことがあったらすぐ分かるように」城ノ内は、さらりとそう言った。bR8へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月19日

ミニミニ小説・牡丹 bR6

 午後7時過ぎミナが大きな抱き枕を持ってやってきた。だんだん大きくなっていくアサミお腹を見て、仰向けに寝るのが苦しかったら枕に掴まったらいいし、足がむくまないように足をのせてもいいからと、わざわざ買ってきたのだと言った。
 ミナは毎日やってきたが、アサミの顔を見れば安心するのか、洗濯物を持ってすぐ帰っていった。
 ミナと入れ替わりに隣のベッドの若いママ美也子さんの旦那さんがやってきた。美也子さんは細面できれいな女性だった。お腹もまだ3ヵ月になったばかりなので、殆ど目立たなかった。旦那さんは背が高くスポーツマンタイプで、2人はお似合いだった。訪ねる度に、カーテンの中からひそひそ話しするのが聞こえてきた。それはアサミにとってはやはり羨ましいことだった。
 しかし、そのひそひそ話はかっこうの子守唄だった。アサミはいつの間にか深い眠りについた。
 何時間経ったのだろうか。病院はすっかり眠りの中だった。アサミは、フッと人の気配を感じ目が覚めた。もちろん美也子さんの旦那さんは帰っていて、彼女も深い眠りについていた。
 その暗闇の中を、まっすぐにアサミのベッドに近づいてきた男性がいた。bR7へ
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月16日

ミニミニ小説・牡丹 bR5

 入院生活はアサミにとって好都合だった。なにしろ産科は病院とはいえ幸せオーラが満ち溢れている。本来ならアサミは自宅で1人寂しく出産を待たなければならないのだ。
 アサミのいる部屋は4人部屋だった。妊娠初期で切迫流産危機の若いママが2人、もう1人はアサミと同じ妊娠後期で早産の危機がある経産婦だった。昼間はだいたいカーテンが開かれているので、おのずと4人は話すようになり、いつも賑やかだった。
 入院生活は規則正しい時間割が組まれていた。
 安静が基本なので、常にベッドに横たわっているのだが、朝食、薬、検温、牛乳、昼食、薬、検温、おやつ、昼寝、夕食、薬、検温、就寝という日程表のとおり、時間は過ぎていった。
 その間、夫々の家族が訪れた。若いママ2人には、夕方夫々決まった時間に若い旦那さんが訪ねてきた。経産婦の里山さんには男の子2人がいて、昼間時々お祖母さんがその子供たちを連れてやってきた。旦那さんも夜時々やってきた。
 アサミの元へは母のミナが、毎日夜になってやってきた。
 旦那さんがやってこないアサミのことを、他の3人は不思議がっているに違いなかった。
 アサミ自身も、自分がシングルマザーであることを改めて認識させられる、家族訪問風景だった。
 入院は2週間と言われていたが、そんな時、惨めな自分が哀れになり、早く退院したいと思うのだった。bR6へ
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月25日

ミニミニ小説・牡丹 bR4

 アサミがかかっている産婦人科の入院病棟は、およそ病院らしからぬモダンな作りだった。
 新築なこともあって内装がとても明るく綺麗だった。廊下の至るところに飾り棚があって、緑の葉物の鉢や生け花が飾ってあったり、壁には院長の趣味なのか、かわいい西洋の子供を描いた油絵が、ハガキ2枚くらいの小さな額縁だが、数枚飾ってあったりして、どこかお金持ちの邸宅のような錯覚に陥るほどだった。
 その廊下の突き当たりの部屋にアサミは案内された。
 入口の表札には、既に3名の名前が書いてあった。看護師は手際よく1枚の板にアサミの名前を書いた。
 入院までは考えていなかったアサミだったが、医者に「切迫早産です。入院して安静を保つ必要があります」と、即入院を申し渡されたのであった。入院の手続きは1人で出来たものの、日用品や着替えを持ってきてもらうために、ミナに電話を入れた。おっつけ駆けつけてくれることになった。考えてみると入院体験は初めてのことだった。
 ほんとうにミナがいて良かったと思った。
 とはいえ、入院といっても手術とかいうのではない。どこか気楽だった。下腹がはったり、足がつったり、ムカムカする症状はあったが、それは今までにも頻繁にあったことなので、慣れっこだった。それをこれからは誰に気兼ねもなく、ゆっくり寝て暮らせるのかと返って嬉しかった。
 夕方、両手に大きな袋を提げたミナが、息を切らしながら病室へやってきた。
 「昼間に大学に電話を入れておいたよ。産前休暇を1週間前倒しするように訂正するから、仕事のことは心配しないでゆっくり療養しなさい、だって。よかったね」と、まるでアサミの心配を読み解くように言った。
 何から何まで気の付く母親だった。bR5へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月23日

ミニミニ小説・牡丹 bR3

 目が覚めたのは翌日の朝だった。
 母親のミナが、起きてこないアサミを起こしにきたのだ。
 「どうしたの?具合でも悪い?」
 ミナは昨夜、アサミより帰りが遅かった。いつもは居間で待っていてくれるはずのアサミの姿がなかった。もう寝たのかと部屋を覘くと、ベッドの中で早くもいびきをかいていた。疲れているのだと、ミナはそのままそーっとしておいた。
 それが、朝になっても起きてこないので、さすがに心配になったのである。
 アサミは、「昨日忙しかったから」と言いながら腕時計を見た。そういえば、時計も外していなかったのだ。「もうこんな時間?シャワーを浴びてすぐ大学へ行く。あと1週間で産休だから頑張る」と、母のミナに言いながら、自分にも言い聞かせていた。
 そして、気合いを入れて起き上がろうとした。が、下半身に違和感がある。どうしても立つことが出来ないのだ。下腹が圧迫され、足の付け根も痛い。
 ミナがあわてて肩を貸してくれた。何とか立ち上がり、お手洗いにたどりついた。
 さっきから肌に触れるショーツにも違和感があった。恐るおそる確認すると、やはりうっすらと出血していた。
 これは病院へ行くしかないと思った。
 ミナが付き添うと言ってくれた。アサミは「大丈夫、何かあったら電話するから」と断った。
 それから、大学に休むことを電話し、タクシーを呼び病院へ行った。
 これから先、ミナには何かと世話をかける予感がしていた。
 出来ることは、なるだけ1人でしようとアサミは考えていたのだ。bR4へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月21日

ミニミニ小説・牡丹 bR2

 新しい年になって再び大学の授業が始まった。
 高齢出産で気をつけることは多かったが、アサミは比較的元気だった。
 職場の好奇の目もひとまず落ち着いたというより、図々しさを決め込んだことで、返って面白くないのか、皆一応に口を閉ざしてアサミの周りに近づこうとしなかった。卑屈になっていた時は、つけ込まれて意地悪されたのだ。今は堂々とマタニティー服を着て、お昼休みには休憩室で昼寝をした。
 そんな生活だったが、順調に胎児は育っていた。
 そして4月、大学は1番忙しい時期に入った。
 正確には、3月からその忙しさは続いていた。
 新入生が入ってくる前に産休に入ることになっていた。
 アサミは指折り数えてその日を待っていた。
 そんなある日、ひどい疲労感を覚えたアサミは、勤務を終えて家に帰るなり、着替えもせずにベッドに横たわった。bR3へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月19日

ミニミニ小説・牡丹 bR1

 アサミのお腹はまだそれほど目立っている訳ではないが、歩くとのけ反ったかっこうになり、それがいばっているように見えた。
 それがどうしても気になり、アサミは研究室からなるだけ出ないようにした。
 ただ、暮の大掃除には、誰よりも身体を動かして働いた。それなのに、そこにいる誰も彼女を労わってくれなかった。
 当然のことと分かっていたし、何も辛くはないのに、なぜか涙が出てくるのが不思議だった。
 暖房が効きすぎているみたい、と一人言を呟きながら、汗を拭くふりをして涙を拭いた。
 妊娠中ほど、精神の安定が必要と本に書いてあった。
 それに妊娠中は女の一生で1番幸せな時期だとも。
 アサミは今精神が不安定だと自覚していた。
 とはいっても、確かに赤ちゃんに会える喜びはあった。でもそれが一生の内で1番幸せだとは思えなかった。
 季節が暗い冬に移っていくことも、アサミの気持ちをますます心細くしていた。
 やがて大学も冬休みに入り、針のむしろのようだった職場からひとまず解放されたのであった。bR2へ
(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 20:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

ミニミニ小説・牡丹

bR0
 妊娠5ヵ月が過ぎると安定期に入り、つわりもなくなった。
 アサミは、シングルマザーで産前産後休暇、育児休暇が取れることがどんなに恵まれているかよく分かっていた。だから周りからどんなに好奇な目で見られても我慢しようと覚悟はしていた。
 案の定教務課に行ったことで、どこからともなくじわじわと噂は流れていった。それとともにお腹もどんどんせり出していった。隠しおおせるはずはなかった。
 助手仲間は、口では、頑張ってね、と言ってくれたが、どこか憐れむような、蔑んだような態度は否めなかった。
 ある日、あからさまに「あなた、ずうずうしいわね。結婚しないで出産するなんてこの大学の恥よ。どうせ不倫の子でしょ。辞めて育事に専念しなさいよ」と、わざわざ城ノ内研究室で仕事をしているアサミの元にやってきて怒鳴ったのは、日頃話したこともない女性教授だった。彼女は1度も結婚経験がない平石という50歳代の芸術論の教授である。
 アサミは貝になるしかなかった。
 「何黙っているのよ、何とか言いなさいよ」と、アサミのデスクの前に仁王立ちして動こうとしない。
 幸い研究室にはアサミ以外誰もいなかった。アサミは息を殺してうつむいた。しかしこれ以上罵詈雑言を聞く気はなかった。さりとて、立ち上がって逃げる訳にもいかなかった。言わせるだけ言わせて、頭の中にはひたすら赤ちゃんの名前を思い浮かべた。
 その間ずっと下を向いたままだった。
 平石の言っている言葉は何1つ頭に入ってこないのに、涙が、なぜか止めどなく流れ始めた。
 「ああ〜あ、やだね。こんなこと許す城ノ内先生も問題よ。先生部屋にいる?」と言い捨てると、平石は、城ノ内の教授室へと向かった。
 アサミは、居たたまれず洗面室に駆け込んだ。
 洗面室で泣くしか術はなかった。
 こんなことでいちいち泣いている自分が情けなかった。これではくじけてしまうと思った。これを機に、横着で恥知らずになろうと、アサミは大決意をしたのである。bR1へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月03日

ミニミニ小説・牡丹

bQ9
 12月は飲み会が多かった。
 もともとお酒がそれほど飲めるわけではなかったアサミは、飲み会の席では誰からも無理強いされることもなかった。忘年会もクリスマスパーティーも例年と変わりなく出席した。城ノ内と一緒になることもあったが、城ノ内からも何の気遣いも受けなかった。アサミはそれがとても有難かった。
 お正月が明けてすぐ、アサミは思い切って教務課に出向いた。
 課長の織田はアサミの姿を見ると、アサミの言葉を待たずに隣の会議室に招き入れた。
 「やっと来ましたね。貴女の事情は城ノ内先生から伺っています。いつ来るか待っていました」
 そんなことはそぶりにも見せていなかった城ノ内が、内内に話していてくれたのだと思うと、その思わぬ優しさに、思わず熱いものがこみ上げてきた。
 「でも、当大学では初めてのケースなので戸惑いました。城ノ内先生と部長先生と相談した結果、産前産後休暇、育児休暇共に認めましょう、という結論に達しました。貴女は優秀な助手だという城ノ内先生の強い進言がありました。貴女の生き方を尊重しようということになったのです。ただ、あなたへの世間の風当たりはまだまだ強いですよ。本当に大丈夫なのですか?」
と、織田は穏やかな口調だったが、どこか困惑気に言った。
 「大丈夫です。ご迷惑かけてすみません。母が全面的に援助してくれると言っています。休暇に入るまではしっかり仕事頑張ります。復帰してからは、仕事中心で頑張ります。よろしくお願いします」
 アサミは、恥を捨てていた。厚かましいことと知りながら、当たり前のことのように淡々と話した。
 城ノ内がどんな風に話したかは定かではないが、シングルマザーになるいきさつは何も聞かれなかった。
 城ノ内の優しさと思いやりに、アサミは、絶対城ノ内には迷惑はかけられないと、改めて思ったのだった。bR0へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 21:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月21日

ミニミニ小説・牡丹

bQ7
 それからというもの、アサミはただ前だけを見て生活した。
 12月になって妊娠4カ月になっても、アサミのお腹は目立つことはなかった。
 城ノ内以外、アサミの妊娠を知る人はいなかった。
 元々痩せ気味のアサミの身体だが、今流行りのフワッとした長めのチュニックブラウスを着れば全く普通と変わらなかった。
 34歳という年齢にも関わらず、体調は比較的快調だった。胎児も順調に育っていた。1ヵ月に1回行く検診も土曜日の午前中に充てたので、全く仕事にも影響を与えなかった。
 毎日、元気に努めて明るく人に接した。すると、不思議なことに、同僚や周りの先生たちから「最近、楽しそうだね」とか、「最近きれいになったね、恋人でも出来た?」とか、かつてないほど気軽に話しかけられるようになったのである。
 自分でも性格が変わっていくのを感じていた。明るくなれば、人も自然に寄ってくることが今になって初めてわかった。もっと早く気付いていれば、こんなことにならずに、普通の幸せな結婚が出来ていたかもしれないと、ふと思ったりする。
 そう思うのは、城ノ内の研究室をちょくちょく訪れる若い外来講師渋井の存在のせいでもある。考えてみれば、彼とは何回も会っているのに、今まではただ会釈するだけだった。
 それが、会釈する時、ただ目を見て笑顔を添えるようになっただけなのに、彼の方からアサミに寄ってきて話しかけるようになったのである。
 それ以外にもあらゆる人たちと気軽に会話が楽しめるようになった。
 目の前が開けた感覚だった。
 毎日、そんな職場の一瞬一瞬が楽しかった。bQ8へ

(カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)

posted by hidamari at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする