2011年04月15日

ミニミニ小説・牡丹

bQ6
 アサミが、産婦人科の門をくぐったのは11月も末になってからだった。
 自分で、おおよそ3ヵ月になっていると、見当がついていた。
 医者は50歳代の女性だった。アサミが今までかかったどの医者よりも親切で、しかも美人だった。 評判がいいのだろう、患者もかなり多かった。
 彼女は、アサミの事情を知っても態度を変えることなく、妊娠証明書を事務的に書いてくれた。出産予定日は来年6月10日だった。
 アサミは、翌日さっそく市役所へ行き、母子手帳の交付を受けた。
 これでいいのだ、と何度も自分に言い聞かせた。
 本来なら喜んでくれるパートナーがいて、2人でお腹の子供を守っていくはずなのに、自分で選んだこととはいえ、何もかも1人でしなければならないのだと思うと、後から後から涙が出て止まらなかった。
 その夜も、将来の自分と子供の寂しげな姿をむりやり空想して、泣いた。
 でも泣くのは今夜まで、これっきりにしよう、明日からは毎日毎日をただ明るく生きていこう。
 アサミはそう心に深く叩きこんだのである。bQ7へ

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2011年04月03日

ミニミニ小説・牡丹

bQ5
 城ノ内に、妊娠のこと、シングルマザーになることを打ち明けたことで、アサミは8割方難関を突破したような気分がした。
 次は、母親のミナに話して、許しを請うことだった。
 ミナは、アサミがまだ子供の頃から、常に、結婚して孫を産んでくれることが最大の親孝行だからね、と言ってきかせていた。しかしそれも30歳を過ぎてからはぷっつりと言わなくなった。アサミに気を遣ってというより、半ば諦めていたのかもしれない。
 その娘がいきなりシングルマザーになるという。
 最初は驚き、お決まり通り「あなたをそんなふしだらな子供に育てたつもりはありません。絶対許さないから」と激怒した。
 それでも絶対産むという娘が、今度はしだいに不憫に思えてきた。
 「生まれた子供になんて説明するの?」
 「今はまだ何も考えていない。子供が大きくなったら本当のことを話そうと思う」
 「それで仕事は続けられるの?」
 「もちろん続けるつもり。そのうちに大学の教務課にも話す。担当の教授にはもう話した」
 なんとなくもう認めている口調になっていることに、ミナ自身戸惑っていた。
 いくら聞いても相手の男を明かさない娘の気持ちと、それでも産むという決心を、もう認めるしかないと思った。
 この先どんな困難が待ち受けているか分からないが、孫に会えるという喜びがないわけではなかったからだ。
 夫が亡くなってから娘を育てるのに必死だった。娘が結婚して幸せになってくれることだけを願っていた。それがこんな形になろうとは想定したこともなかった。
 でも、よく考えてみると、娘がそれで幸せなら、そんな生き方もあるのではと思えた。
 少なくとも世間体さえ気にしなければ、娘と孫と3人で暮らす生活は、ミナにとっては願ってもないような気がしてくるのだった。bQ6へ

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2011年03月05日

ミニミニ小説・牡丹

bQ4
 彼がうかない顔をしているのは、大和ホテルでアサミと一夜を共にした時、既にアサミがその男と付き合っていたかが分からないからだろう。アサミは察していた。それで、あえて、9月末を強調したのだ。
 城ノ内に誘われたのは、9月になってすぐだったから、その男と重なっていないことを知らしめるのは、城ノ内を安心させることでもあり、アサミ自身が、そんなに自分はふしだらでないことを証明したいという、この期に及んでのささやかなプライドだった。
 「それからとんとん拍子に仲良くなって、妊娠してしまったんです」
 アサミは自分がどれだけ大胆な告白をしているか分かっていた。
 「それで出来ちゃった婚をするのですか。いいじゃないですか。おめでとう。でも何もそこまで僕に言わなくても、結婚するとだけ聞けば十分ですよ」
 こんなことを聞かされることが、城ノ内にとってはどれだけ迷惑なことか、十分分かっていた。
 恥知らずで非常識な女と思われても仕方ないと覚悟していた。
 しかし、言わない訳にはいかなかった。何しろ、結婚する相手はいないのだから。
 「ち、違うんです。事情があって結婚はしないんです。ただ、子供は欲しいんです。だから出産はするんです」
 「え!どういうこと」という城ノ内の質問には答えず、
 「それで、産前産後休暇と育児休暇を申し出るつもりです。これは教務を通して総務の方にお願いにいくつもりです。でも私は今先生の助手という立場ですから、まず先生に報告するのが筋と思いましたので、今日伺いました」と、一方的に話し続けた。
 城ノ内は事態をすぐには呑み込めないようだった。アサミの言ったことを頭の中で整理するのに1〜2分かかったろうか。
 「な、何!シングルマザーになるっていうの?」
 目を丸くして問いただした。
 「そうです」
 「休暇の規則は僕にはよく分からないけど、大丈夫なの?」
 「それは調べました。大丈夫だと思います」
 「先生の助手も下ろされると思います。ご迷惑かけますがよろしくお願いします」
 アサミは深々と頭を下げた。
 「僕はちっともかまわないけど、君、ほんとうに大丈夫なの?彼はそれでいいと言っているの?」
 「ハイ、よく話し合いました。彼とは今後も付き合っていくつもりです」
 「最近は男女の関係も多種多様なんだね」と、誰に言うでもなく城ノ内はつぶやいた。
 アサミは、お腹の子の父親に関して城ノ内が何の疑いも持っていないことにホッとした。と同時に、どこかにちょっとだけ、切ない気も、しないではなかった。

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2011年03月04日

ミニミニ小説・牡丹

bQ3
 その日は城ノ内の1時限の講義に、助手としてアサミも駆り出された。
 1コマの講義が終ったのが10時30分、次の講義は午後からだった。
 城ノ内はその間自分の教授室にいるはずだ。アサミは意を決した。
 何度も練習したセリフを頭の中で繰り返しながら、ドアをノックした。
 「どうぞ」と言う声がさわやかだったので、アサミは少しホッとした。うまく喋れそうな気がした。
 「失礼します」と、きっちりと頭を下げて中へ入った。
 アサミを見た城ノ内は、一瞬きょとんとした顔をした。
 「ああー、君。何かあったの?」と、けげんな顔をしたものの、声はとても穏やかだった。
 久しぶりに相対した城ノ内は、アサミの悩みを知るはずもなく、あくまでもクールで優しかった。が、もう彼には何の執着もなかった。
 「今ちょっといいでしょうか」
 「いいよ、どうぞ座って」と言いながら、応接テーブルのソファーに、自らもデスクから移ってきた。
アサミは「失礼します」と言って、城ノ内とテーブルを挟んで対面した。
 「それで…」
 「ハイ、…実は、先生にご報告とお願いに参りました」
 「結婚でもするの?」
 「ええ、まあ、いえ、」「え!本当なの?」
 「違うんです。実はこの秋に中学の同窓会があったんです。…それに何年ぶりかで出席したんですけど。…そしたら、殆どの人がもう結婚していて、子供もいて、私何だか話が合わなくて…それで偶然私の隣の席の男の子が独身だったんです。だから独身は彼と私ぐらいで…、いえ、他にもいたかもしれませんが、もうそんなことどうでもよくなって、彼と意気投合したというか」
 「それ何月のこと?」
 何を言いたいのだろう、というような顔をして聞いていた城ノ内は、ポツリと質問した。
 意を察したアサミは「9月末です」と答えた。
 城ノ内は「そう」とだけ言った。bQ4へ

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2011年02月25日

ミニミニ小説・牡丹

bQ2
 結局アサミは、誰にも相談することなく、悶々とする日を送っていた。
 1番にしなければならないのは、直接の上司である城ノ内に妊娠のことを言うことではないかと思った。 そのためには、アサミにそういう相手がいて、しかもその彼とは結婚せず未婚の母になることを、打ち明けなければならなかった。
 それを何のこだわりもなく、自然に話さなければならないのだ。
 その上で、産前産後休暇、育児休暇を取ることを報告し、承諾を得なければならない。
 何より、彼には何の関係もないアサミ自身のプライベートのこととして認識させることが重要なのだ。
 そのハードルを越えなければ、全てのことが先に進めないような気がした。
 もし、城ノ内の子供であることが分かったら、絶対に産むことは許されないだろう。
 産むと決めたからには、誰にも邪魔をされないよう万全を期したかった。
 産前産後休暇等は、未婚でも、婦人の労働法で認められていることも、既に調べ上げた。
 後は、出産のために粛々とことを進めるだけだった。
 その一歩として、彼に何の疑いも持たせないようなストーリーを考え出さなければならなかった。
 毎日そのストーリーを考えた。筋書ができた。次は自らそれを信じ込むことだった。
 そして、どんなことばを浴びせられても動揺しないように訓練を重ねた。
 時はどんどん過ぎていった。
 11月に入り、アサミはつわりの苦しみを味わった。
 同居している母親のミナは、まだ何も気が付いていないようだ。
 保険外交員をしているミナとは、すれ違いが多く、休日以外は顔を合わせることが少ないのが幸いしていた。
 ただ、母子手帳の取得を、これ以上延ばす訳にはいかない、ここらが潮時だと思った。bQ3へ
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2011年02月17日

ミニミニ小説・牡丹

bQ1
 判定は陽性だった。
 目の前が真っ暗になった。へなへなと腰から力が抜け、便座から立ち上がることが出来なかった。
 大学からの帰路、薬局へ寄り、自宅のトイレに入って、どれくらい時間が経ったのだろうか。
 突然、「これは天からの贈り物だ」、という考えが稲妻のようにアサミの頭におりてきたのである。
 34歳という年齢は、子供を授かるには後がないかもしれないのだ。たとえ夫と呼ぶべき人が居なくても、自分の分身がいてくれたら、この先どんなに心強いだろう。それに愛している城ノ内との間に出来た子供なら、それこそ願ってもないこと。そんな風に考えると産むしかないと思えるのだった。
 しかし、現実を考えると、今の勤めを辞めてしまうと生活は出来ないのだ。まして子供を育てるなんて出来るはずはない。
 たとえ、妊娠を隠し、働き続けても、時がくるとお腹が出てくる。やがて出産となると、産前産後、育児休暇を取らなければならない。未婚の女性にその権利があるのだろうか。
 かといって、彼の子供ということは絶対明かされない。城ノ内には迷惑をかけられない。
 1番いいのは今誰かと結婚することだ。しかし、当然そんな男もいなかった。
 アサミには相談出来る友人もいなかった。唯一出来るとすれば母親のミナだったが、どんなに悲しむかと思えば、なかなか切りだす勇気も出てこない。ただシングルマザーになるのなら、ミナの援助がなければ、どうすることも出来ないことだった。
 アサミは毎日考え続けた。
 産婦人科へは、産むか産まないかを決めてから行こうと思った。bQ2へ
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2011年01月30日

ミニミニ小説・牡丹

bQ0
 忙しさに紛れて、アサミも徐々に城ノ内のことを意識しないようになっていた。
 とはいえ、1日でもアサミの視界に城ノ内の姿が入らなければ、何か落し物をしているような不安があるのも否めなかった。
 そんなある朝、アサミはふと、不思議な身体の変調を感じた。
 いつも通り、自宅の洗面所で歯磨きをしていた。
 歯ブラシを長いこと口の中に入れておくことが出来ないのだ。
 ムカムカする。
 我慢して歯磨きを続けるとむせてしまったのだ。
 ずっと以前はこんなことはなかったのに、考えてみれば、最近ずっとこうだ。
 仕事が忙しいから身体が悲鳴を上げているのだろうか。
 胃が悪いのだろうか。
 盲腸でも初期はムカムカすると聞いたこともあった。
 最後に、ひょっとしたらつわり!ということを考えた。
 そういえば、月のものが遅れていた。
 そのことは自覚していたが、初めて城ノ内と関係を持ったことで、子宮も驚いて変調をきたすこともあるだろう、と考えていた。
 ものの本にもそんなことが書いてあったような気がしたからだ。
 たった1度の経験でそんなことになるはずがないと、高をくくっていたこともあった。
 しかし、その日、アサミは「もしかしたら」という考えにさいなまされたのである。
 これは、確かめるしかない、妊娠判定試薬なるものを使ってみようと、アサミは泣きたい気持ちで決心したのである。bQ1へ
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2011年01月12日

ミニミニ小説・牡丹

bP9
 アサミは、自分が意外と度胸があることに戸惑っていた。
 33歳という年齢がそうさせるのか、決めた以上ウジウジしたくなかった。
 一晩を楽しもうと思った。
 城ノ内が念を押すように「俺、妻子がいるけど、…いいんだね」と、言った。
 何もそんなこと言わなくても、と、ちょっとムカッとしたが、「ええー、大丈夫です」と、笑顔で応えた。
 改めて、これでいい、後で絶対後悔しない、と自分自身に言い聞かせて、城ノ内に抱かれたのだった。
 夏休みが終わり、大学は前期試験期間に入り、忙しい毎日になった。
 城ノ内は、学内では、アサミに対して今までとなんら変わることなく接したが、 ただ、アサミが2度目を誘われることはなかった。
 10月に入ると、大学は後期授業に入り、就職が決まっていない4年生は就職活動に余念がなかった。
 美術史学科という特殊な分野では、就職先も限定される。
 教師だったり、出版会社だったり、情報関係だったり、良い所に就職出来るのはごく僅かである。
 城ノ内は、自分のゼミを取っている学生の就職先を親身になって探してやった。
 専門を生かせない一般会社でも積極的にリサーチして、学生を送り出した。
 アサミはそんな城ノ内の姿をみて、ますます頼もしく思い、より以上に好きになっていった。
 しかし、城ノ内の方は、もはやアサミに対して男女の情愛がないのは歴然としていた。
 アサミが描いた通りのシナリオだった。
 後悔は出来なかった。bQ0へ
 
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2011年01月07日

ミニミニ小説・牡丹

bP8
 なにしろアサミには初めてのことだったので、その時、さまざまな考えが頭をよぎった。
 「既婚者とそんなことになるのは不倫でしょう?とんでもない」というのがまっさきだった。
 次に、昼間、城ノ内から唐突に誘いの電話を受けた時のことを思い出した。
 言下に断って、すぐに後悔した。その後恥を忍んでOKの電話をしたのは、断れば2度と誘われないだろうと思ったからだ。
 今回も、ここで断ったら2度と誘われないだろうと思った。
 フランス出張の慰労会が2度あるわけない。
 城ノ内にとっては、ホテルに誘うことも慰労の1つぐらいにしか考えていないのだろう。
 そうであったら、断固断るべきだ。断っても、彼がダメージを受けることはまずないだろう。
 そう思う一方で、「断っていいの?後でまたきっと後悔するよ」という思いがあった。
 それがだんだん膨らんでいった。
 「1度だけアバンチュールをしてみるのもいいじゃない?何もない人生よりましよ」という思いが、どんどん大きくなり、ついに消えることはなかった。
 「どうする?迷ってるの?」
 城ノ内はアサミの心を見透かすように言った。
 「いえ、いいですよ。部屋へ行っても」
 アサミは、決心した。
 「彼が好きだから、後はどうなっても絶対後悔しない」と。bP9へ

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2011年01月04日

ミニミニ小説・牡丹

bP7
 アサミがラウンジに着いたのは、6時を少し回っていた。
 普通、デートの待ち合わせでは、男性が待つものだという既成概念を持っていたアサミだったが、城ノ内を待たせる訳にはいかなかった。
 30分待つつもりだったが、城ノ内は6時15分頃現れた。
 アサミは早く来ていてよかったと思った。
 「あれ、待たせちゃった」と、軽く右手を上げながら、「じゃあ行こう」と、言うと、城ノ内はレストランの中へどんどん入っていった。
 アサミは、地に足がつかないフワフワした身体の危うさを感じながら付いていった。
 ディナーのコース料理を、城ノ内は美味しそうに頬ばった。
 それに比べアサミは、大好きなビフテキさえ、砂をかむようだった。
 胸がいっぱいで、味わえる心の余裕がなかった。
 城ノ内は、パリ美術大学で教鞭を取っていた頃の話をした。
 アサミは、なんとか相槌は打っていたが、頭の中は上の空だった。
 デザートに何が出たかも意識がないまま、最後のコーヒーが目の前にあった。
 これで今日のデートは終わってしまうのだ。
次回があるのだろうかいう思いが、ふっとアサミの頭の中をよぎった。
「俺ばかり話しているけど退屈だろう?」
「と、とんでもありません。面白いです」
「なら、いいけど。…実は、このホテルの客室を予約入れているんだけど、よかったらそこへ場所替えない?」
 アサミは一瞬耳を疑った。
 こんなに大胆なことを、こんなにすんなりと言われることに、アサミは慣れていなかった。
 というより初めての経験だった。
 少しでも想定していたら、こんなことにはならなかっただろう、とアサミは後日思ったことだった。bP8へ
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2010年11月29日

ミニミニ小説・牡丹

bP6
 思い切って城ノ内からのリダイヤルを押した。
 「あー、ナニ?」
 何事もなかったように、落ち着いた優しい声だった。
 意外だったが、それは嬉しいことだった。
 「あのぉさっきのおはなしですけど…」
 「あーいいよ、気にしなくて」
 「違うんです。今日都合が悪いことないので、連れていってください」
 「えっ、いいの?」
 「すみません、1度断ったのにまた」
 「それはいいんだけど、じゃあ、この間の大和ホテル、11階にレストランがあるんだ。その同じフロアーにラウンジがあるから、そこで6時半に待ち合わせしよう」
 「はい、分かりました」
 アサミはもう夢心地だった。
 カーテンを思い切って開けたら、目の前がぱあーっと明るくなった時の気持ちだった。
 幸せ光線に向かって走っていくしかないと思った。
 時計を見るとまだ午後3時を過ぎたばかりだった。
 どう考えても仕事を続けられる状態ではなかった。
 幸いにも、まだ大学は夏休み中、早退しても誰にも迷惑はかからなかった。
 総務に早退届を出すと、アサミは脇目もふらずに大学を後にした。
 自宅へ帰って、身綺麗にして出直そうと考えたのだ。
 城ノ内はきっとまだ教授室にいるのだろう。
 アサミは、自分がとてつもない悪女になった気分だった。
 ちっとも嫌な気持ちではなかったが、自分ではない人間が乗り移った違和感はぬぐい切れなかった。bP7へ
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2010年11月18日

ミニミニ小説・牡丹

bP5
 そんなアサミに城ノ内から突然電話がかかってきたのは、9月になってからだった。しかもそれはアサミのケイタイにである。城ノ内もアサミの電話番号を削除していないのだと分かって、アサミはそれだけで、もう舞い上がっていた。
 城ノ内は、「今日時間ある?フランス出張の慰労会をしようよ」と、言った。
 アサミは飛び上がらんばかりに嬉しかったのに、「えっ、今日ですか?」と、心とは裏腹の思わぬことばを口にしていた。
 心の準備が出来ていなかった。
 今日はおしゃれをしていない、デートするならちゃんとしたい、という気持ちもあったかもしれない。
 「都合が悪いの?それなら次にしようか」と、城ノ内はあっさり言った。
 ちょっと待ってと思ったが、考える間もなく、
 「すみません」と言ってしまった。
 「じゃあ、また」と言って、城ノ内は電話を切った。
 茫然自失のアサミは、今何が起きたか、落ち着いて改めて考えてみた。
 そうすると、何で断ってしまったのか、悔やまれてならなかった。
 次にと城ノ内は言ったが、2度と電話かかってこないような気がしてならなかった。
 今すぐに自分から電話をかけて「行きます。今日都合をつけます。連れていってください」と言うしかないと思った。
 胸の鼓動は音をたてて波打っていた。(bP6へ)
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2010年10月17日

ミニミニ小説・牡丹

bP4
 城ノ内とアサミは、無事パリ出張を終えて東京へ帰ってきた。
 アサミにとっては、夜中の12時が過ぎてまた元の現実に戻ったシンデレラの気持ちだった。
 城ノ内の態度は基本的には一貫していた。
 一方アサミは、城ノ内に対する思いが、出張する前とは全く変わってしまっていた。
 アサミ自身、自分の感情の変化についていけない状態だった。
 パリでは何ともなかった、城ノ内との何気ない会話や、足音にまで敏感に心が反応した。
 大学は夏休みなので講義はない。
 城ノ内は概ね研究室の教授の部屋で過ごし、アサミは助手室で過ごした。助手室には9人の仲間の席がある。その中で研修出張している者もいて、席にいるのはたいてい5〜6人だった。アサミはその中で、せっせとパリでの講義内容をまとめていた。
 城ノ内がアサミに仕事を頼む時は、机上の電話を使う。しかし、めったにベルが鳴ることはなかった。
 1日全く会わないこともあった。
 それどころか、城ノ内が出勤しているのかも分からない日が続くこともあった。
 そんなことは、今までは何とも思わなかったことだ。
 しかし、今は違う。落ち着かない。
 ただ、ケイタイに城ノ内の番号が入っていることが、アサミには何よりの慰みだった。
 ケイタイのボタンさえ押せば、城ノ内に繋がるのだと思うことが、心の支えになっていた。
 とはいえ、アサミからボタンを押すことはなかった。というより出来なかった。暑い夏休み期間の毎日を、狭い助手室でアサミは悶々として過ごしていた。bP5へ
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2010年09月28日

ミニミニ小説・牡丹

bP3
 パリ美術大学へは翌日から地下鉄で通った。
 講義がある間、殆ど城ノ内とアサミは一緒に出勤した。
 アサミの助手としての仕事は、日本のそれとあまり変わったものではなかった。
 資料をプリントしたり、プロジェクターを準備して スライドを映したり、書物を揃えたりした。
 講義は1日2コマ4時間程度だったが、その後のゼミでは録音を担当した。
 フランス語が分からないのは、やはり何かと不自由だったが、中には英語で話しかける学生もいた。
 城ノ内から指示される雑務は、事務室にいるエルザが何かと助けてくれたので、何も不都合はなかった。
 アサミは毎日が楽しかった。
 仕事が終わるのはだいたい午後4時前後だった。
 それからでも十分観光ができた。
 エルザが、アサミ1人でもじゅうぶん楽しめる観光スポットを教えてくれた。
 時間に制約がないセーヌ川界隈の散歩コースをよく歩いた。
 夕日に照らしだされる景色にただ感激した。
 10日間の間に2日休みがあった。
 1日目をアルベールとエルザが全てしきって、アサミのために観光地巡りをしてくれた。
 2日目は城ノ内が同行してくれた。
 アサミにとってこのパリ出張は夢の中の出来事だった。bP4へ
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2010年09月20日

ミニミニ小説・牡丹

bP2
 城ノ内は、空港に迎えにきた男性事務職員アルベールと、新たに女性事務職員エルザを伴ってやってきた。
 そして、この2人にはこれから何かとお世話になると、アサミに紹介した。
 エルザは25歳、若くて美人だった。
 それにファッションセンスが素晴らしく、さすがパリジェンヌという感じだった。
 それなのに、ちっとも気どったところはなく、とても気さくだった。
 しかも英語も多少話せた。
 「お友達になってね」と向こうから言われた。
 エルザは、アサミより7歳くらいで年下だったが、アサミにとっては畏敬と憧れの存在でしかなかった。
 レストランはシャンゼリゼ通りにあった。
 予約が入れてあったのか、テーブルがセットされていた。
 前菜、スープ、メイン、パン、デザートが順序よく運ばれてきた。
 その間、ソムリエが赤ワインをコップに注いでくれた。
 日本のコース料理と同じなんだとアサミは妙に感動した。だが、内容は全く違っていた。
 前菜がフォアグラ料理だったり、ヘーゼルナッツのスープだったり、メインの仔牛ステーキの柔らかさ、またデザートがチョコレートカスタードのパイとアイス、と、それらはシャレていて想像以上に美味しいものだった。
 城ノ内が、後で教えてくれたのは、高級なレストランなのにあれでも500ユーロくらいで、そんなに高いことはないということだった。
 ただ、観光で来てもなかなかこんなに安くて美味しい料理にはありつけないだろう、と言った。
 「今日は彼らが歓迎の意で招待してくれたが、明日からはもっと庶民的なレストランを探すか、そうでなければ、スーパーでお総菜を買ってホテル内で食べる方法もあるから」と言った。
 その夜は、ディナーを済ませた後アルベールとエルザはそのまま車で自宅へ帰り、城ノ内とアサミは、シャンゼリゼ通りをブラブラ歩きながらホテルまで戻った。
 アサミは、今私は次元が違う世界に居る、それならそれでしっかりこの世界を体験しようと、思った。
 不安もあったが、ウキウキする方が強かった。bP3へ
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2010年09月12日

ミニミニ小説・牡丹

bP1
 その日アサミは疲れと時差ボケで、外に出る状態ではなかった。
 城ノ内は、「夕方には帰ってくる、それから一緒に夕食をしよう、それまでゆっくりしていて」と言って、1人で大学へ出かけていった。
 アサミはとりあえず荷物を取り出し、備え付けの収納庫に収め、シャワーを浴びベッドに横になった。
 なかなか寝付くことが出来ずうつらうつらしているうちに、いつの間にか眠っていたようだ。
 ケイタイが鳴った。
 城ノ内からだった。
 「今から大学を出てホテルへ君を迎えにいく。大学の職員と一緒にディナーに行くから、30分後にロビーで待っていて」という電話だった。
 アサミのパリでの第1日目は、ディナーから始まったのである。
 パリの夏の夕方はとても心地よかった。
 陽は沈みかけていたが、まだまだ真っ青な高い空はとてつもなく美しくそこにエッフェル塔がそびえる様は、これぞパリそのものだった。アサミはそこはかとない幸せの風が吹き抜けていくのを実感した。bP2へ

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2010年09月09日

ミニミニ小説・牡丹

bP0
 パリへ着いてからの城ノ内は、日本に居る時とは別人のように、アサミに対してフレンドリーだった。
 城ノ内の変貌に多少驚いたが、外国で仕事をするという不安で胸が潰れそうだったアサミは、それは嬉しいことだった。
 パリ美術大学の男性事務員が空港まで迎えにきていた。
 城ノ内とは面識があるのか、2人はしばらく談笑していたが、その後その男性事務員はテキパキと車を手配して、城ノ内とアサミをホテルまで案内すると、そそくさと帰っていった。
 ホテルはエッフェル塔のすぐ側にあった。
 セーヌ川も歩いて行ける範囲だと男性事務員が教えてくれた。
 ホテルはいかにもフランス風の重厚な建物で思っていた以上にりっぱだった。
 ボーイが、城ノ内を6階、アサミを5階の部屋にそれぞれ案内した。
 その2つの部屋をそれぞれ10日間、既に借り上げてあった。
 ホテルから大学までは地下鉄で通うと城ノ内は言った。
 そして「講義がある時は、常に行動を共にするから、君は何も心配しなくていいよ。後はケイタイで連絡とれるし、休日のことも大学の職員に、君のこと観光案内してもらうように頼んであるから」と、言った。そして10日分の日当として、1万ユーロをアサミに渡した。
 部屋にはインターネットの設備や衛星放送が見られるテレビも完備していた。
 ホテルの中にも、美容院や飲食店、食料品店、ブディック等一通りの施設が整っていた。
 とりあえず、ホテル暮らしは快適に送れそうだとアサミは思った。bP1へ
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2010年08月25日

ミニミニ小説・牡丹

bX
 フランス語を全く話せない自分が助手の役目が出来るはずがない。
 アサミは素直に言うしかないと思った。
 翌日、アサミは教授室へ出向き、そのことを言った。
 すると城ノ内は「フランス語?そんなの話せなくて大丈夫。英語が少し出来れば有難いけど。どうなの?」と言った。
 幸か不幸かアサミは英会話教室へ3年通ったこともあり、日常会話くらいは話すことが出来た。
「仕事のことは本当に心配いらない。僕が頼む雑務をしてもらうだけだから。行ってもらえるね」と、今度は少し強い口調で言った。
 アサミは命令だと理解した。
 「分かりました。よろしくお願いします」と言ってすごすごと退室するしかなかった。
 それから1ヵ月本の編集は急ピッチで進み、見事に完成した。
 後は出版社と城ノ内の間で校正が何度か交わされ、秋には出版されることになった。
  城ノ内とアサミは7月10日成田空港からパリへ向かった。bP0へ

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2010年08月23日

ミニミニ小説・牡丹

bW
 その大学はパリの郊外にあって、学生数3000人程度のパリ美術専門大学、もちろん城ノ内はフランス語でも大学名をいったが、アサミに覚えられるはずはなかった。
 城ノ内は「返事は今でなくていいから、ゆっくり考えて返事してください」と、言った。
 夢ではないかと思うくらい唐突な話しだったし、ちょっと考えただけでも、とても受け入れられる話ではなかった。
 即座に断るつもりだったが、城ノ内はアサミの心を先取りするように、「今教室でやって貰っている仕事の延長みたいなものだから、頼みますよ」と、言うと、すぐ返事をしないでというように、椅子を元に戻し2杯めのジョッキを飲み干した。
 アサミは簡単には断れないのだ、と思った。
 1杯目のジョッキ半分くらいは美味しいと思って飲んだビールが、すっかりまずく感じたのは、何もアサミがアルコールに弱いせいばかりではないことは分かっていた。
 それは、何かもっともらしい断る理由を考えなければという思いで、頭がいっぱいになったからだった。bXへ
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2010年08月03日

ミニミニ小説・牡丹

bV
 屋上に特設してあるビャガーデンは、赤ちょうちんやライトがあかあかと照らされて、ざわざわした雰囲気だったが、せかせかした下界とは別世界だった。
 アサミは一瞬に気持ちが切り替わった感じがした。
 フワッとしたいい感じにである。
 ボーイらしき人がすぐに来て、「お2人様ですね、こちらへどうぞ」と丸いテーブルに案内した。椅子が3脚あったので、対面することなく、良い加減に2人は斜めに座ることが出来た。
 城ノ内はとりあえずといって中ジョッキを2杯頼んだ。
 生ビールはすぐに運ばれてきた。
 儀式みたいに乾杯して、城ノ内はアサミに聞くこともせず、食べ物を注文した。
 勤め帰りのサラリーマンやOLのグループが徐々に集まりだし、周りのテーブルを埋めていった。
 それとともに、四方から乾杯の気炎があがり、もはや静かに話が出来る状態ではないが、アサミにはそれがかえって居心地がよかった。
 城ノ内は椅子を近づけながら、真顔でアサミに話しかけてきた。
 「実は君に話があるんだ。明日職場ででもよかったんだが、ちょうど君が残っていたので…」
 「はい?」
 「それにたまには飲むのもいいしね」
 「はい」
 「実は大学が夏休みに入る7月の話なのだが、僕、フランスへ出張するんだ。前に勤めていた大学から集中講義を2週間やってくれというオファーが来ているんだよ。およそ40時間だから、みっちり講義をやらないといけないんだ。観光する時間はあまりないと思うが、向こうは助手1人分の手当ても出すというから、君さえよかったら、随行して欲しいんだけど、どうだろうか」
 アサミには俄かには信じられないことだった。bWへ
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