2010年07月21日

ミニミニ小説・牡丹

bU
 城ノ内は大和ホテルへ向かってどんどん歩いていった。
 周りはすっかり夜のとばりに包まれていた。
 アサミは、なぜはっきり断れなかったのだろうという後悔にかられていた。
 それでも城ノ内を見失わないよう、城ノ内の足元を見ながらひたすら付いていった。
 城ノ内の大きな革靴は外側がかなり擦れていた。
 イメージと違ってかっこ悪かったが、なぜかホッとした。
 ホテルへ入る時も、ロビーを通り過ぎる時も、エレベーターの前に着くまで、城ノ内は後ろを振り返らなかった。
 その間、このまま付いて行かなくてもいいのではないかという思いが、ずっと頭の隅に引っ掛かっていた。
 「教授があまり早足なので見失いました」と、後で言い訳しても、十分成りたつだろうと思えたからだ。
 しかしそれは、気が利かないどん臭い女だということを露呈するようなものだった。
 何より嫌なのは、仕事もそうなのだと思われることだった。
 アサミは、これは仕事の一環なのだと思うことにした。
 すると、急に気が楽になったのである。bVへ

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2010年07月10日

ミニミニ小説・牡丹

 bT
「あっ、君、世良さんちょっと待ってて。僕も帰るから…そこまで一緒に」
 城ノ内は、ロッカーから背広を出しながら言った。
(なんで一緒に帰るのよ。学生同士じゃあるまいし、それに何を話せばいいのよ)と思ったが、アサミに逆らう勇気はなかった。
 「ハァー」と言って、城ノ内が教授室から出てくるのを待った。
 城ノ内が教授室から研究室を経て廊下に出るのを待って、ドアにロックした。
 それを見届けると城ノ内は「これちょっと持っててくれる」と言って、A4判の茶封筒をアサミに渡し、革靴のヒモを前かがみになって直した。
 アサミは「ハ、ハイ」茶封筒を胸に抱きながら、何か、変な気がした。
 悪い気持ちではない。決して人使いが荒いという感じではなかったのだ。
 むしろ心を許した人にする親しげな振る舞いに見えた。アサミは男性から受けた初めての経験だった。
 こんなことで胸がキュンとなる33歳の自分が、ちょっと情けなかった。
「世良さんお家はどこ?」
「東部台です」
「じゃあ電車?」
「いえ、団地行きのバスがありますから」
「最終は何時?」
「えっ!最終ですか?」
「うん、大和ホテルがビヤガーデンオープンしたんだって、飲みに誘おうと思って」
「えっ、私を…ですか?」
「そうだよ」
 アサミは、仕事のことで何かあるのだろうか、と思った。
 何かヘマをやったのだろうか。
 ほんわかしていた気持ちが、とたんに不安に変わった。急に気分が悪くなった。bUへ

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2010年06月28日

ミニミニ小説・牡丹

bS
 研究室は4階建管理棟の2階にある。南向きだが、天気のいい午前中を除き殆ど照明は点けっ放しの状態になっている。
 昼間と部屋の雰囲気が変わり、比較的広い空間も俄かに抑圧的な感じになった時、アサミはやっと日没したことを知った。
 それほど仕事に集中していた。
 アサミは、左手の中指と親指で小鼻を摘まんで目を瞑った。
 その瞬間頭の中は空っぽだった。
 今の仕事は、機械的に順序良く資料を並べているだけだった。
 その時、
 「おおーっ、まだ居たの?」
 城ノ内が部屋に入ってきた。
 不意をつかれたアサミは、ほんとうにびっくりした。
 「す、すみません、もう帰ります」
 反射的にそう答えていた。
 「ご苦労さん、進んでいるみたいだね」
 アサミはそれに気楽に返事をすることが出来なかった。
 ただかすかに頷いた。そして机の上を片付け始めた。
 城ノ内も返事を期待している風ではなく、そそくさと奥にある教授室へ入っていった。
 時計は7時を過ぎていた。
 今この静まりかえった研究室に、ドアの向こうとはいえ、城ノ内と2人でいるということに、アサミはことのほか緊張していた。居心地が悪かった。1分でも早くこの研究室を出て行きたかった。
 かといって、戸締りをしていいものか、城ノ内に任せていいものか、躊躇していた。
 教授室は入口が2ヵ所あって研究室からも廊下からも出入りが出来るようになっていた。
 ただ、今城ノ内が入ってきたのは、研究室の入口からだった。
 アサミは教授室のドアをノックした。
 「お先に失礼します。研究室のカギ閉めてもいいでしょうか」
 と、声をかけた。bTへ

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2010年06月14日

ミニミニ小説・牡丹

bR
 城ノ内は42歳という若さで教授である。
 フランスの大学で教鞭を取っていたのを、この大学の目玉にしようと学長が招へいしてきた有能な男性だった。
 学生の間では当然人気があったが、助手の間でも相当なものだった。
 アサミが専任助手として配属されると、助手の間で羨望が高じていじめの対象になったのは、ある意味自然の成り行きだったのかもしれない。
 しかし、城ノ内にそれほど関心があった訳ではないアサミにとっては、このいじめは納得のいくものではなかった。
 ただ、今まで仕えていた教授が、殊の外、上下関係を重視する人で、日々屈辱的な扱いを受けていたこともあり、その劣悪な職場環境を免れることは、この上ない喜びだった。
 なぜなら、城ノ内はおおらかな性格で、細かいことにいちいちうるさく言う人ではないというもっぱらの噂が、アサミの耳にも入っていたからである。
 そんなこともあり、アサミはこれを機会に、楽しく仕事が出来ることだけを心掛けていた。
 教授と助手との間に格差があるのは純然たる事実である。
 教授の、その高いプライドの中の領地に踏み込むことなく、信頼関係を結んでもらうことが、アサミの大きな願いでもあり、助手として大成していくことでもあった。
 毎日、城ノ内の満足した顔が見たくて、編集の仕事に携わっていた。
 その日も、とっくに就業時間は過ぎていたにも関わらず、1人仕事に没頭していた。bSへ

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2010年06月09日

ミニミニ小説・牡丹

牡丹bQ
 アサミは編集の仕事が楽しくてしようがなかった。
 あらゆる資料や図版を系統毎、年代毎、国別等、細部に渡って区分し、整理していく作業はたいへんだったが、1つずつ繋げて完成させていく達成感があった。
 時間さえあれば必ず成し遂げられるのが、何より快感だった。
 区分を終えると次に、城ノ内の文章による原稿に合わせて、貼り合わせていく。
 これは、マイホームを設計する時のあのワクワク感に似ていて、資料区分けよりさらに楽しい作業だった。
 作業は常に4〜5人の人間が交替でやってきて手分けしてやっている。
 アサミだけは、城ノ内研究室専任の助手であるから、勤務時間の殆どをこの編集作業に費やした。
 仲間とは、相談もし合うが、アサミにとって、彼らはライバルでもあった。
 なぜなら、資料の貼り付けは、各自のアイディアを駆使しなければ出来る仕事ではなかった。
 出来たものを最後に城ノ内がチェックする時、その成果が試される。
 アサミは城ノ内の意に沿うものを作りたかった。
 褒めてもらいたかった。
 何より、城ノ内の役にたちたかった。bRへ

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2010年06月06日

ミニミニ小説・牡丹

 bP
 世良アサミが周りの同僚から避けられていることを 感じるようになったのは、新学期が始まった頃からだろうか。
 アサミは私立の芸術大学で助手として働いている。
 大学卒業後すぐ就職して、今年33歳になる。独身である。
 助手は全学部で9人いるが、アサミはいつの間にか11年選手で、もはや中堅どころになっていた。
 そのアサミが今年度から、美術史学科城ノ内真一郎教授の研究室に配属になった。
 城ノ内は世界美術史に関する本の編集をしている最中で、他の教室の助手も入れ替わり立ち替わり応援にきていたし、学生も手伝っていたので、連日教室は活気にあふれていた。bQへ

(短編小説を気長に暇々に載せたいと思います。カテゴリー〈短編小説・つぶらなひとみ〉に連載)




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2008年12月26日

小説・父親の役目

26
 かつてはこの家にも家庭があった。美代子はそう思いたかった。子供たちが巣立っていく時が、秀男との別れの時でもあった。
 ずっと前から分かっていたことだった。覚悟はとっくに出来ていた。なのにこの空しさは何なのだろう。
 「私は何のために家庭を守ってきたのだろう」
 子供たちを1人前にするために。そうなのだ。それだけが美代子の意地だった。妻の役目をさせてもらえなかった、秀男に対する意地だった。そのために、秀男にも父親の役 目を果たさせた。
 賢は、社会人になるまで、まだ少なくとも2年はある。それまでは秀男が費用を出すことになっている。
 財産分与として自宅を美代子が取り、秀男は織江の元に去っていった。慰謝料として秀男の退職時に出る退職金の1/3を美代子が受け取るという約束を、弁護士を介して取ることも出来た。
 美代子は、いくばくかの貯えとパートで生活をしていかなければならない。ただ、美代子はまだ46歳だった。これから新たな再出発が十分に可能だった。
 美代子は何も後悔していなかった。
 ここに自宅がある限り、子供たちは事ある毎に帰ってくるはずだ。
 これからは、誰に執着するでもなく、水の流れに従って自由に生きていこう。
 美代子は、空しさの中にも、一仕事やり遂げた時に味わう清々しさも感じるのであった。

              了

(上記小説は、カテゴリー{短編小説・つぶらなひとみ}の中の、小説・父親の役目で連載してきましたが今回で終了しました)

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2008年12月25日

小説・父親の役目

25
 それ以来、秀男と美代子は冷たい夫婦関係のまま、小百合と賢の親としてのみ、かろうじて家族の形を保っていた。
 織江にはパイプカットをしていることは言ってない。ただ、賢が20歳になったら、必ず離婚して織江と結婚することは約束していた。
 子供たちはすくすくと育っていったといっていいだろう。本当のところは分からないが、ただ、自分たちのために両親が離婚を止まっていることに、複雑な思いを持っていることは確かだった。
 小百合は私大の教育学部を出て、来春から高校の英語教師になる。
 賢は熊本大学薬学部2年生である。20歳になる。
 約束の年齢に達した。
 これ以上美代子と結婚生活を続けている意味がなかった。
 既に、賢が高校を卒業して大学に進学した時から、夫婦2人が取り残された。その時から、徐々に別居生活が始まっていた。秀男は殆んど織江と生活を共にしていた。
 秀男は織江に申訳ない気持ちがいっぱいだった。入籍という形式こそが、織江にしてやれる最高のプレゼントだった。26へ

(上記小説は、カテゴリー{短編小説・つぶらなひとみ}の中の、小説・父親の役目で連載中)

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2008年12月20日

小説・父親の役目

24
 秀男は離婚を断念せざるをえなかった。
 父親として生きるべきだと、気付いたからだ。
とうに夫婦としては機能していなかった。それなら離婚しようと思うのは、やはり自分勝手な考えなのだ。冷え切った夫婦の元で暮らす子供は、可哀相だと思いこんでいたが、子供たちは、そんな両親でも一緒の方がいいという。
それなら頑張って、父親としての役目を果たそうと思ったのだ。
それに、美代子は織江の存在を認めるようなことを言った。
秀男は近いうちにパイプカットもしようと思った。
それが、小百合と賢を大事に思っている証になる。懺悔の気持もあった。なによりそれが、織江とこれからも付き合っていける、美代子から与えられた条件でもあるからだ。25へ

(上記小説は、カテゴリー{短編小説・つぶらなひとみ}の中の、小説・父親の役目で連載中)

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2008年12月19日

小説・父親の役目

23
 「あなたは自分の幸せのために家族を捨てるというの?」
 捲くし立てている美代子のことばが遠くに聞えているが、小百合の「親の責任を果たしてよ」ということばが心に鋭く突き刺さっていて、美代子が何を言っているのか頭に入らなかった。
 「小百合も賢も、ママたち別れたりしないから、心配しないでもう部屋へ行きなさい」
 と、秀男をひとしきり罵倒した美代子がふっと気を取り直して言った。
 「行こう」と賢の肩に優しく手をかけると、小百合は、動こうとしない賢を、かかえるようにして2階へ連れていった。
 「あなた、小百合が言ったように、離婚するなら賢が20歳になってからね。その時が来たらわたしも離婚を考えるわ。それまでは…」
 「これまでと一緒でいいというのか、おまえは」
 「ええ、そうよ。あなたに女がいてもかまわない」
 「ホントにそれでいいのか」
 「ただし、子供は作らないで。あなた、小百合と賢が大事だと言ったわね。でも外に子供が出来たらきっとそっちに気がいって、小百合たちのことは二の次になる。それだけは許せない」
 「なに?俺にパイプカットでもしろっていうのか」
 「そう、それ、それよ。それが私の条件よ、女と別れてなんて言わないから」
 「へー、考えてみるよ」
 ちょっとしたはずみで口を滑らしたことばだったが、なぜか、秀男には現実になる予感があった。
 というのは、秀男にも、小百合と賢以外にもう子供はいらないという気持があったのである。24へ

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2008年12月17日

小説・父親の役目

22
 小百合は春には中学生になる。両親の仲が常々悪いことは知っていた。そしてそれは一方的に父親が悪いと思っていた。
 賢も春には5年生になるが、男の子は女の子に比べてあどけなかった。両親がよく喧嘩するのは分かっていたが、どちらに非があるかなど考えたことはなかった。ただ、ママが好きなことはもちろんだが、パパも大好きだったのだ。両親がよく喧嘩することに不安と恐怖は常にあった。でも、どこの家も同じようなことがあっているのだろうと思っていた。
 そこに、急にパパとママのどちらかを選べと言われたのである。
賢には事態を掴むことさえ出来るはずがなかった。
 もし、事態を理解したとしても、子供の賢に選べるはずがなかった。
 ところが、お姉ちゃんは、パパに向かって、どうどうと反抗している。それどころか、パパに意見をしている。
賢は、「お姉ちゃんはすごい、お姉ちゃんの言う通りにしよう」と思った。
 ただそれでも、「これから先僕たちはきっと不幸になるに違いない」という漠然とした思いが、賢の心を波立たせ、なぜかことばは出ず、目から涙ばかり溢れてきた。23へ

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2008年12月15日

小説・父親の役目

21
 「これはずっと前から決めていたことで、好きな女性が出来たからではない。申し訳ないがパパの我がままなんだ。どうしてもママとやっていけない。ただ、小百合と賢は大事に思っている。だから今日まで言い出せなかった。小百合と賢に決めて欲しい。パパとママのどちらと暮らすかを」
 誰が聞いても理不尽な秀男の言いぐさだった。
 美代子はこれが現実だとはとても思えなかった。何かの間違いだと思った。
 「あなた冗談でしょう?そんな勝手なこと許されるはずないでしょう?わたしは納得できないからね。そんな話し聞いたことないよ。わたしは絶対別れないからね」
 立て続けに言いながら、自分が可哀想でたまらなかった。世界中で一番哀れな女になり下がった気がした。夫に愛がないことは感じていたが、本気でここまで思っていたとは。悔しくてたまらなかった。
 それまで何も言わずにうなだれていた小百合が、涙をいっぱい浮かべた目を拭おうともせず、秀男に向かって言った。
 「パパ、ずるいよ。いきなりパパとママのどちらかを選べなんて。わたしも賢もパパとママの離婚、認めないよ。絶対イヤだから。1人を選ぶことなんか出来ないよ。ママが嫌いになったから離婚?勝手すぎるよ。子供がほんとうに大事なら、親の責任を果たしてよ。せめてわたしと賢が大人になるまで、パパとママの離婚は許さないからね」
 小百合はそう言うと、今度は賢に向かって
 「ね、賢だってそう思うでしょう?」と言った。
 賢も涙をいっぱい浮かべていた。そして大きく頷いた。22へ

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2008年12月11日

小説・父親の役目

19
 「小百合と賢も、とっくに感じていると思うが、パパとママのこと」
 秀男はおもむろに話し出した。
 「あなた、何よ、突然、わたしは何も感じてないよ。それに何も子供まで巻き込むことではないでしょ」
 不安に思っていても、今まではどこか半信半疑のところがあった。あってほしくないことだったので、秀男との深刻な話しは避けてきたのに、一足飛びに子供たちの前で何かことを起そうとしている秀男が、美代子には許せなかった。
 泣くつもりはないのに、涙は容赦なく後から後から頬を伝わった。
 「このままでは君だって苦しいだろう?1番は俺のためだが、ママや子供たちのためにも、
もうこれ以上ママとの結婚生活は出来ないと思っているんだ」
 秀男は、もう決めていた。今日は何が何でも自分の意志を家族に伝えるために帰ってきていた。美代子にだけではなく、2人の子供たちにむけても言っているつもりだった。
 小百合と賢はうつむいたきり、唇を噛みしめていた。
 「何を言い出すの、これからも今まで通りでいいじゃない、あなたは何も変わらなくていいのよ。それとも他に結婚したい女が出来たとでもいうの?」
 これだけは絶対言うまいと思っていたことばだった。今までにも疑えば思い当たる節もあったのだが、恐くて聞けなかったのだ。それに、外に女がいても、夫が家庭を捨てさえしなければ、それでいいという最悪のことまで考えて、口にしなかったことばだった。
 それなのに、勢いで言ってしまった。
 とにかく美代子は子供のため、生活のため、絶対離婚は避けねばならなかった。20へ

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2008年12月06日

小説・父親の役目

18
 家族が4人揃って囲む久しぶりの食卓も、終始静まりがちだった。ただ秀男はこんな時もお酒を飲んだ。美代子は料理があまり得意ではなかったが、主婦を12年もやっていると、それなりに様にはなってきている。今日はたまたま子供たちが好きなおでんを作っていた。このおでんだけは秀男も好物だった。
 食卓にあるコンロの上の鍋は、湯気が立ち上り、だしの香り、具の香りが漂う。それだけで、幸せそのものの夕げの風景である。
 美代子は、今日おでんにした偶然が、ほんとうに嬉しかった。
 家族は、もくもくと箸を動かし、口を動かした。
 しかし、美代子だけはいっこうに食欲がなかった。
 これから、秀男が何を話すのか、あれこれ想像すると、どう考えても良いこととは考えられない。まさか…とは思うのだが、離婚ということばが、頭に浮かぶ。知らず知らずのうちに涙が込み上げてきて、食欲が沸く筈などなかったのである。
 食事が終わると秀男はいち早く、食卓からリビングルームのソファーに移動した。
 小百合と賢も、つられてソファーに座った。美代子も覚悟を決めてソファーに座った。テーブルを挟んで秀男と子供2人が対面し、美代子は横の1人掛けに座った。19へ

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2008年12月03日

小説・父親の役目

17
 美代子はけげんな顔をして、秀男を迎えた。
 「何かあった?」
 「うん、ちょっとね。俺のごはんあるか?」
 秀男は努めて自然に振る舞った。
 「今から食べるとこだから、何とかなると思う」
 言いたいことは山ほどある美代子だったが、久しぶりに帰ってきた夫に、やはり嫌なことを言うのははばかられた。彼女は帰ってこない夫を毎日どんなに待っていたことだろう。夜になると、ますます心細く、本当は引っ張ってでも連れ戻したかったのだ。だから今夜の突然の帰宅はとても嬉しいことだった。
 でもそれを素直に秀男にむけることは出来なかった。つまらない意地もあったが、何よりその勇気がなかったのである。
 「そうか、子供たちいるのか?」
 「あたりまえでしょう、あなたじゃないのよ、あの子たちは他に行くとこないんだから」
 また、悪態をついていた。思わず口に出してしまうのが、美代子の悪い癖だった。
 気配を感じたのか、美代子が声をかける前に、小百合と賢が居間に入ってきた。
 「あら!パパ、お帰りなさい。今日は泊まるのでしょう」
 小百合はそう言ったあとで「何だかへんだよね、パパの家はここだもの」
 「そうだよ、パパ、どうして毎日、家に帰ってこないの?」
と、賢がちょっと声高に言った。
 「うん、今日はそのことで、パパ、みんなに話しがあるんだ」
と、秀男がちょうどよかった、とばかりに言った。
 小百合と賢の目に緊張が走った。2人は顔を見合わせた。
 台所に立っていた美代子は、背後で交わされている親子の会話を、かたずを呑んで聞いていた。18へ

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2008年11月28日

小説・父親の役目

16
 そんなことが約1ヵ月も続いた頃だった。
 その日は初雪が舞い散る寒い日だった。勇作の身の上に異変が起きた。肺炎を併発し危篤状態に陥ったのである。ヒデは医者から、家族にその旨を知らせるように告げられた。
 ヒデ、秀男の家族、優太郎の家族に見守れながら勇作が息を引き取ったのは、その3日後のことだった。
 葬儀やその後の法要がたんたんと行われた。
 世の中はクリスマスや年末のあわただしさで賑わっていたが、松山家はひっそりとした年の瀬だったのはいうまでもない。
 特に美代子は、松山家の中で、殆んど蚊帳の外に置かれていた。彼女も自ら入っていこうとしなかったこともある。7日7日の法要には、お坊さんが来られる時間だけ に、かろうじて顔を出す程度だった。
 ヒデの妹は面と向かって、「美代子さんはまるでお客さんみたいね」と、皮肉たっぷりに言った。ヒデは「いいのよ、秀男が悪いのだから」と妹をたしなめるように言った。
 美代子は何を言われても仕方ないと思っていたので「すみません」といって、身を細めるだけだったが、思わぬヒデのことばにちょっと戸惑った。
 ヒデはどこまで分かっているのだろうか。

 久しぶりに秀男が職場から真っ直ぐ自宅へ戻ってきたのは、49日の忌明け法要が済んで、既に新しい年も2月に入ってからだった。17へ

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2008年11月24日

小説・父親の役目

15
 勇作の様態は一応小康状態を保っていた。ただ相変わらず話しができる状態ではなかったし、身体を動かせる状態でもなかった。1日中管を通して寝ているばかりだった。
 元気な時は喧嘩ばかりしていた夫婦だったが、ヒデは毎日病院に通って、何くれとなく病人の世話をした。
 秀男は、どんなに遅くなっても、仕事の帰りに病院へ寄り、ちょっとの間でも看護を代わってやった。
 秀男にはそれが都合のいいこともあった。
彼にはもう2年も付き合っている白井織江という女性がいた。
 織江は小料理屋を自分で切り盛りしていた。元々母親がやっていたお店だったが、5年前に母親が亡くなってから、そのままママとしておさまったのである。
 秀男は先代のママの時代から通っていた。その頃、織江はまだ20代で保険会社に勤めていて、時々手伝いにくる程度だった。綺麗な娘だったので客に人気があったが、秀男は美人が苦手だったので織江のことが気になることもなかった。
 ただ、長年ずっと通い続けているのは秀男くらいだろう。
 秀男はお酒が好きだった。お酒と食べ物が美味しい織江の店が気に入っていただけだった。友人との付き合いで、よそのお店で飲んでも、帰りには1人で必ず織江の店へ寄るのが習慣になっていたのだ。
 保険会社を辞めてママになったのは織江が28歳のときだったが、いつの間にか33歳になっていた。秀男とは4歳違いである。
 秀男と織江が結ばれたのは、これもまた酒の上だった。とはいっても、その頃秀男と織江は十分気心が知れた仲だった。織江には以前勤めていた保険会社に恋人がいたが、その彼から別れ話が持ち出されていた。
 お店を畳んで結婚するか、別れるかを決断しかねている織江に、秀男は、躊躇なくお店を続けて欲しいと言った。しかも、自分が力になるとまで言った。秀男はいつの間にか織江を深く愛していたのだった。心の奥で決心していたのかもしれない。
 それから、秀男はちょくちょく織江の店へ泊まるようになっていた。織江の住いはお店の二階にあった。
 勇作が入院している間、実家に泊まるふりをして、秀男は、毎晩織江の住いに泊まっていたのである。16へ

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2008年11月21日

小説・父親の役目

14
 美代子は、勇作のことを憐れに思う気持はあっても、家族の悲しみとしては感じていなかった。勇作とも、元々それほどの絆はなかったのである。
 彼の闘病生活に、かかわりたくなかった。それは夫、秀男に対する腹いせでもある。秀男が、夫としてあたりまえに自分に接してくれていたら、もう少しましな嫁でいられるだろう。こんな女にしたのは、全て秀男のせいだと美代子は思っていた。
 秀男もそのことはわきまえていた。美代子には、何も頼るつもりはなかった。
 秀男はもはや美代子を少しも愛してはいなかった。頭の中には常に離婚という2文字があった。
 ただ子供たちを愛していた。子供たちが美代子を慕っていることも分かっていた。
 秀男は子供たちのことを考えると、どうしても離婚に踏み切れずにいた。15へ

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2008年11月18日

小説・父親の役目

13
 勇作は手術から2日後意識を回復した。しかし、もはや口はきけなかったし、目もうつろで、自分の身体中にささっている管を1日中ぼんやりと眺めていた。
 医者に言わせると、まだ2〜3週間は再出血の恐れがあるから危険な状態は続くとのことだった。
 東京から優太郎もかけつけ、1週間実家に滞在し、勇作の様態を見守った。その間、美代子は3日だけ嫁家の台所に立ち家族の食事を作った。それだけでも美代子にとっては相当なストレスだった。ほんとうは毎日行って、病人にかかりっきりのヒデに代わり、家事を手伝わなければならないことは分かっていた。でも4日目、身体がいうことをきかなかった。拒否反応を起すのである。朝起きると、頭痛と吐き気が襲ってきた。秀男はどこに泊まるのか、勇作が倒れてから、自宅へは戻っていなかった。
 美代子は何もかも腹がたった。その日から、2度と病院へも嫁家へも顔を出さなかった。
 元のカステラ屋のパートに精を出す毎日に戻ったのである。
 小百合は小学校6年生、賢は4年生だった。
 2人は、時々病院へ顔を出しているようだったが、美代子には何も言わなかった。秀男もその後、時々着替えを取りに帰ってはくるが、子供たちと2〜3言話すと、いつの間にか消えているという状態だった。
 美代子に対して、誰も文句を言う風でもなかった。美代子はそれがほっとすることでもあったが、寂しいことでもあった。
 この頃から秀男と美代子は、コミュニケーションを全くもたない夫婦になっていたのである。14へ

(上記小説は、カテゴリー{短編小説・つぶらなひとみ}の中の、小説・父親の役目で連載中)

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2008年11月13日

小説・父親の役目

12
 「一命はとり止めたけど、言語障害や身体の麻痺が残るそうよ。これからどうなるんだろうね」
 ヒデは秀男に言っているようだったが、自分自身にも言い聞かせているようだった。
 「とりあえず、優太郎にも知らせようよ」
 秀男は、ヒデが普段、自分より弟の優太郎を頼りに思っていることをよく分かっている。
 「そうだね、お父さんの様態もこの先どうなるか分らないし…、でも優太郎は東京だもの、あてには出来ないよ」
 「そのことは後で考えよう、俺も美代子も働いているから」
 「あら、美代子さん働いているの?」
 「すみません」
 美代子は正直働いていてよかった、と思った。
 秀男との仲がぎくしゃくしているのをストレスに感じている美代子は、子供たちに手がかからなくなったこともあり、1年ほど前から町内のカステラ屋さんでパートをしていた。
 自給800円で、午前10時から午後4時まで働いている。お金よりストレス解消が目的だった。カステラを切ったり袋詰めをしたりする単純作業なのだが、これがけっこう無の境地になれて、楽しくさえあった。
 「どこで働いているの?」
 「カステラ屋さんで」
 「何だ、それならすぐ辞められるわね」
 美代子は、心中穏やかではなかったが、この状況で反論するのは得策でないのは、嫁として今まで培われた知恵だった。
 病院の廊下は朝日が差し込んでいた。11月の太陽はけっこう奥まで長い光線を送っている。夜勤明けの交代でナースセンターを出たり入ったりする看護士たちが、いちいち「おはようございます、お疲れ様」と、ヒデたち家族に挨拶していく。
 ヒデの家族は今日から一変してしまうのに、看護士たちにとっては、日常茶飯事の光景なのだ。いつもと変わらぬ忙しい一日が始まろうとしていた。13へ

(上記小説は、カテゴリー{短編小説・つぶらなひとみ}の中の、小説・父親の役目で連載中)
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