2008年09月14日

小説・間口

20
 さだまさしコンサートは2週間後の土曜日の夜の部だった。
 それにしても、大林がさだまさしファンだとは、嬉しい驚きである。
 近寄り難い雲の上人と認識していたのに、意外と同じフロアー、しかも同じ部屋にいるのではないかという感じさえした。
 趣味が一致することが、こんなに身近に感じさせることを、陸は身を持って感じるのだった。それに引き比べると、本間とは身体の関係から始まった不純な付き合いである。
 そういえば、彼の音楽の趣味は何なのだろう、とふと思った。ジャズが好きだと、まだ2人が付き合うずっと前に聞いたことがある。ジャズにあまり興味がなかった陸は、その時当然、「そうなんだ」と言ったきり、あまり関心を示さなかった。当時陸は、自分が堅実な結婚をするものとばかり思っていたので、妻帯者の彼には、もちろん全く興味がなかったこともある。
 彼から、その後ジャズの話を聞いたことがないのは、陸がジャズにあまり興味を持っていないことを察知して、遠慮しているのだろうと思われた。
 ―本間の妻はきっとジャズが好きなのでは。夫婦でコンサートへ行ったり、CDを聴いたりしているのかも―
 そう考えた時、陸は初めて本間の妻にゼラシーを感じたのだ。
 それと同時に、本間とはそろそろ別れようと、思ったのである。
 その時、既に新たな恋の予感がしたのは否めなかった。
 今度こそ純粋な気持から始まる恋愛だと思った。
 しかし、これも、陸が間口を広げて、受け入れ態勢をいつもオンにしていた賜物だった。21へ

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2008年09月11日

小説・間口

19
 さだまさしコンサートのチケットをもらったのは、ちょうどその頃だった。
 お昼休み、学生課内には職員は出払っていて、陸1人が留守番をしていた。
 この時間はひっきりなしに学生が訪れる。その応対は当番の職員が窓口で当ることになっている。そのため、部屋の中は空っぽでも、別に差し障りはないのだが、誰もいなくなった部屋を出ていくのはやはり抵抗がある。暗黙の了解で最後に残された人が留守番をする羽目になるのだ。
 陸は、今日もまた皆に遅れを取ってしまって1人残されてしまったのだ。仕方なく自分のデスクで、何をするでもなくただぼんやり座っていた。
 「室田さん、居たんだ。よかった」
と、言いながら、大林が部屋へ入ってきた時、陸は飛び上がらんばかりに驚いた。
 「ああー、びっくりした!」
 「居眠りしていたでしょう」
 「先生!こんにちは、ええ、ぼんやりしていました」
 「君、さだまさし好き?コンサートへ行かない?」
 陸は驚いた。不意を突かれたこともあるが、掛け値なしにさだまさしのファンだったからだ。
 コンサートがあることは知っていた。既に3年前にも行っている。母も好きだったので2人で行ったのである。
 今回も行きたいという思いは十分あった。ただ、1人で行くのがイヤだったので躊躇していたのだ。友人を誘うのもはばかれた。さだまさしを好きな人が周りにはいないし、誘っても古臭いと言われるのが関の山だったから。
 「ええっ?どういうことですか?」
 「いや、君が好きなら一緒に行きたいと思って」
 「ほんとうですか、嬉しいです。私、行きたかったの」
 「よかった。じゃあ、チケット1枚渡しとくよ」
 大林はそういうと、ポケットから封筒を出して机の上に置いた。20へ

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2008年09月09日

小説・間口

18
 陸は大学全体の職員懇親会の活動に全く興味がなかった。
 懇親会は、1年に1回忘年会を兼ねて海外旅行をするのが慣例になっていた。
 即ち、海外旅行のツアーを作るために必要だったので、この会を作っているようなものだった。
 陸は今までに、この海外旅行に1度も参加したことがない。
 まず全員参加すると、人数が多すぎて収拾がつかないのは当然のことである。
 よく出来たもので誰も何も言わなくても、毎年参加者は、全体の1/3程度である。それゆえ、スムーズにいくというものだった。
 今回は事務局代表幹事が、陸の当番だった。陸はやむを得ず幹事会に出席した。その時、教養学部の代表幹事として出席していた大林と、偶然、席が隣り合わせだったのだ。   
 そこで、2人は何となく会話をするようになったのである。
 話してみると、大林はそれほど高慢な態度ではなく、むしろフレンドリーな感じで、とても好感が持てるものだった。
 それはきっと、大林自身が、先生らしからぬ、異質な存在だったのかもしれない。彼はごく普通の常識的な感覚の持ち主だった。
 なにより大林に心を許すようになったのは、向いている方向や、物事に対する考えに、陸と相通じるものがあったことだった。
 それは、旅行先やテーマを決める時も、ことごとく、意見が一致した。
 もしかして、大林が意図的に陸に合わせているのではないかと思うほど、2人は意見が一致したのである。
 こんなことが続くうちに、陸は大林を意識するようになっていった。きっと大林も、自分のことを憎からず思っているのではないかと、思うようになっていったのである。
 しかし、よく考えると、それは大それた考えだった。
 なぜなら、大林は結婚していたし子供もいた。それに、元々、大林は、陸には夢にも考えられない程、雲の上の男性だった。
 スターと1ファンという程の隔たりだったのに、こんなに近しく話すことが出来るとは。それは夢のようにワクワクすることだったのである。19へ

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2008年09月05日

小説・間口

17
 大林勇三40歳、助教授、専門は数学、長身、唐沢寿明風のイケメンである。もちろん学生の間ではルックスだけで、十分人気があった。
 数学という教科は、1回生、2回生の選択科目なのだが、大林の授業といえどもそれほど人気があるもではなかった。それゆえ、受講する学生は常に少なかった。そのせいか、点数はあまく、出席日数が足りていてテストを受けさえすれば、殆んど全員、優の評価で単位が取得出来るという悪評もあった。
 その大林と陸の出会いは、大学全体の職員懇親会幹事としての会合だった。
 それまでは教員と学生課職員という仕事上だけの付き合いだった。しかしそれも、大林があまりにかっこ良すぎて、必要最小限のことを話すのが精一杯だった。
 もともと、教員と事務局は目に見えない壁があった。教員は事務方の一段上に位置しているという気持があるのか、事務職員に対しては、殆んど心を開く人はいなかった。
 事務的な話をするだけの関係だったのである。18へ

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2008年09月03日

小説・間口

bP6
 本間はその日以来、陸を自宅まで送ることをしなくなった。職場でも妙によそよそしくなり、陸には返って不自然に見えたが、職場恋愛はこんなものかと、むしろ新鮮さを感じていた。
 本間は、自分が都合のよい時は、休みの日でもマンションへ訪ねてきた。
 陸は、自分からは絶対、誘うことも電話をかけることもしなかった。
 それは本間が家庭持ちだから遠慮しているわけではない。さして逢いたいと思わないだけのことである。ただ、本間が逢いたいと言えば、さし障りのない限り快く受け入れた。
 それは、逢えば、陸を女性として優しく扱ってくれるのが、何より心地良かったから。
 それに1人暮らしには男手は何かと役に立った。
 家具を動かしたり、高い所の蛍光灯を替えたり、時には料理までしてくれた。
 しかし、本間は月に1〜2回しか現れなかった。
 陸はいつしか、本間を待っている心が自分にあることに気付く。
 それがとてもイヤだった。いつもクールでいたかったのだ。
 本間との関係が1年も経とうとしている時、陸は、教養学部のある男性助教授に、さだまさしコンサートのチケットをもらった。
 それは、陸にとって思いもよらぬ事で、彼女を有頂天にさせるものだったのである。bP7へ

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2008年09月01日

小説・間口

15
 コーヒーを飲むと、本当にスーと心が落ち着いた。
 陸がカップを応接台に戻すと、待っていたかのように、本間は陸の手を握った。
 「ずっと好きだったんだ」と言うと、今度は陸の背中に手を廻した。
 陸は本間のことを恋焦がれていたわけではなかった。ただこういう場面になることは、本間を部屋に上げた時点で予想していた。その通りになっていることを、頭の中で冷静に受け止めていた。
 いいのだ、私はこれを望んでいたのだから。
 何もなくて悩むより、女性として何かあって悩む方がまだいい、と思ったからだった。
 「私もよ」と、口先だけのことばで返した。
 本間はそのことばを聞くと、血走った目と荒い息づかいで、陸を抱き寄せ、キスをし、胸を触った。
 陸は本間が成す一つ一つの動作が単なる儀式にしか、感じなかった。
 男性に触られるのは過去何回かあったが、そのどの時よりも感動はなかった。
 ただ、本間の方は異常に興奮していた。その証拠に身体が小刻みに震えていた。
 「いいのか?俺、結婚しているから、君とは結婚できないけど」
 今までの陸なら、こんな勝手なことを言われてまで、ことに達することなどあり得ない話だった。
 しかし、
 「何よそれ、何も今そんなこと言わなくても…、意地悪ね!」
 と、甘えるように言うと、自ら身体を本間に預けにいったのである。
 陸は今、かたくなな考えを、完全に打ち捨てた。
 そしてここから、軽い女に変身していったのである。16へ

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2008年08月27日

小説・間口

bP4
 元来綺麗好きの陸は、部屋の中はいつもきちんと片付けている。しかも新しいマンションに引っ越す時、家具や調度品も新しくしている。
 誰が何時来ても恥かしくない部屋の中だった。
 「さすがに綺麗な部屋だね、高級ホテルみたいだ」と言いながら、一通り各部屋を見てまわった本間が、リビングルームに戻ってきた。
 「お酒、あるんですけど、車だから…」と言って、陸はコーヒーを入れた。
 「ありがとう、頂きます」
 本間は美味しそうにコーヒーを飲んだ。
 2人だけの空間にコーヒーの香りが漂った。間接灯の柔らかい光線は、否が応でもただならぬムードをかもし出していた。
 陸は居たたまれなかった。
 「果物、召し上がります?りんごむきますけど」
 何かしゃべっていたかった。
 「いや、何もいらない。君もこっちへ来て座ったら」とソファーに手を置いた。
 陸は「ハーイ」と、さも何でもないように、ことさら明るく返事をした。
 そして本間の横にちょこんと座った。
 ムードに合わないハイテンションな演技をしている自分が、陸自身とても見苦しかった。
 あわててコーヒーカップを手にした。心を落ち着かせたかった。bP5へ

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2008年08月25日

小説・間口

bP3
 40歳になったいい大人の女が、夜中に男性を自宅へ招き入れることがどんなことか、陸にもじゅうぶん分かっていた。
 そうなのだ、その時すでに、本間に迫られたら、受け入れてもいいと思ったのである。
 彼のことを恋焦がれるというのではなかった。ただ嫌いではなかった。むしろ好きになっていた。
 今までに付き合った男性は何人かはいたが、情交を結ぶほどの関係になった経験はない。そういう感じだったから、月日が過ぎると、だんだんマンネリ化していき、付き合いも自然消滅していったのだ。
 そのうちに、自分は身を焦がすような恋愛は出来ないだろうし、そんな相手とは巡り合えないと、諦めてしまったのである。
 今考えれば、好意を持つぐらいのところで肉体関係になれば、結婚まで行き着いたかもしれないのだ。友人たちが年頃になって次々に結婚したのは、意外とそれくらいのところで妥協していたのではなかろうか。最近特にそう思えるのだ。
 本間は妻帯者である。夫婦仲もうまくいっているようだ。たとえ陸を愛してくれていても、妻と離婚してまで結婚してくれるとは、とうてい考えられない。それでも、もし、本間が望むなら、どうなってもかまわないと、陸は密かに決心していた。ただ自分が今でも処女というのがイヤだった。乙女ちっくな心も肉体も、共に生まれ変わりたかった。bP4へ

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2008年08月22日

小説・間口

bP2
 その日は金曜日だった。仕事のけりがついたのは10時をまわっていた。いつものように陸は本間の車に便乗していた。
 「いつも只で乗せてもらって申し訳ないですね。何かお礼をしなくてはならないのでしょうね」
タクシーチケットで帰ればこんな気兼ねはいらないのにと思いながらも、やはり本間の親切は日頃から感謝していたので、ふっと出たことばだった。
 「そんな心配いらないよ、どうせついでなんだから…」
 「すみません」
 「それより、どうー、新居の住み心地は…、部屋見てみたいなあー」
 「ああーいいですよぉー、ちょっと寄っていかれませんか?」
 「ほんと!嬉しいな」
 それは、ほんとに自然の流れだった。
 マンションを買うのにあれほど親身になってくれながら、本間は、陸が引っ越してきてから、1度もマンションを訪れたことはない。
 今までになぜこういうことにならなかったのか、不思議なことだった。
 お互いに意識して避けていたような気もする。
 また、残業でくたくたに疲れていると、会話するのも億劫になる。
 それに、打ち解ける間もなく到着してしまうくらいの近い距離に陸のマンションがあったことにもよるだろう。
 今夜は仕事が一段落してほっとしたこともあった。明日が土曜日でお休みということもあった。
 しかし、陸は最初から用意して誘った訳ではなかった。
 ほんとにとっさに出たことばだった。
 それだけ陸は柔軟な気持を持つ女性に変わったというべきだろう。bP3へ

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2008年08月19日

小説・間口

bP1
 お正月が明けると学生課はがぜん忙しくなる。
 新入生の入学試験、在学生の後期試験、卒業式、入学式と大学の主な行事が目白押しなのである。
 陸は毎日殆んど残業だった。何も今年に限ったことではない。この時期忙しいのが大学事務局の宿命だった。そのかわり、夏休みはゆっくり出来るのである。長年この繰り返しに慣れっこにになっている陸は、このことは別に何も苦ではなかった。
 特に今年は、母のいない自宅で、1人で食べる夕食より、学生課の職員が集って食べる残業捕食の方がどれほど楽しかったことか。
 それに帰りは、自宅が同じ方向だからと言って、マイカー通勤である本間が送ってくれた。終電に間に合わない場合、大学からタクシーチケットが配付されるが、経費節減にもなるといって、本間自ら申し出てくれたのだった。
 考えて見ると確かに新しいマンションは本間の家と同じ方向にあった。
 今までの陸なら、たとえ経費節減のためとは言われても、決して夜遅く、上司とはいえ妻帯者の車に乗るなど考えられないことだった。
 しかし、今の陸は昨年までの陸ではなかった。
 母親の死が、その固い考えの殻を打ち破ってくれたのである。破ってしまえば何と身軽で生き易いことか。すっかり陸をとりまく人々や世界まで変わって見えたのである。bP2へ

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2008年08月16日

小説・間口

bP0
 陸が新しいマンションに転居したのは、結局、暮も押し詰まった12月末だった。
 せっかくならお正月を新しい家で迎えられるようにと、本間がいろいろ取り計らってくれたおかげだった。
 マンションは、市電が通っている範囲の地域で、セキュリティー・システムが完備されており、信頼おける会社の物件という条件の元で選んだ。もちろん、間取り、日当たりなども考慮した。選ぶのは思っている以上に困難を要した。途中で嫌気がさし、適当なところで妥協しようとしたが、本間が「きっといいのが見つかるから」と、根気強く付き合ってくれたので、ほぼ思い通りの物件が見つかったのである。
 陸は、本間に心から感謝した。彼は恩にきせることもなく、あるいは不動産を物色するのが趣味ではないかと思うほど、物件選びに熱心だった。
 陸はとりあえずお礼に高級ワインをプレゼントした。本間は「こんな心配無用なのに」と言いながらも、快く受け取ってくれた。
 陸はこうして晴れて自分のマンションを持つことが出来たのである。40歳の大台に乗ったお正月だった。bP1へ

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2008年08月14日

小説・間口

bX
 「すみません、ちょっと調べものがあったので…」
 「ああーそう、いや午後から教授会の資料を綴じようと思ってね。資料がちょっと多いのでここに広げようかと」
 「私、手伝います」
 「頼むよ、昼休みが終ったらすぐ始めるから」
 「あ、はい、分かりました」
 「ところで、調べものって…、それマンションのチラシ?マンション、探してるの?」
  本間は、陸が見ているチラシを覗き込んだ。
 「ええー、いいのがあったから思い切って買っちゃおうかと思って」
 陸は、素直に答えた。
 「そうー、あわてない方がいいよ、じっくり時間をかけて選ばないと。おいそれと決めない方がいいのじゃないか?買うとなるといろいろな面から見ていかないとね。僕も当ってあげるよ」
 「ええっ!本当ですか?よろしくお願いします」
 陸は、本間の申し出が素直に嬉しかった。この際、有り難く、相談に乗ってもらおうと思った。
 彼は、信頼おける上司。親切な世話焼きおじさん。後でそれなりのお礼をすれば済むこと。痩せ我慢して1人であれこれ悩むより、どれだけ心丈夫なことだろう。
 陸は、自分に納得させていた。bP0へ

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2008年08月11日

小説・間口

bW
 陸は今手元に大金があった。遺産相続したお金である。
 これから先1人で生きていかなければならないかもしれない。そのためにもこのお金は有意義に使いたかった。今とりあえず賃貸のマンションに住んでいるが、やはり、分譲マンションを購入するのが1番妥当なお金の使い方に思えた。
 陸は、それほど大きな買物をした経験はもちろんない。自分に出来るのだろうかと不安でもある。が、これからは何でも1人で決めて実行していかなければならないのだ。いざとなれば弟の祥太郎が相談にのってくれるだろうが、あまり頼りたくなかった。
 とにかく、自分1人で、早く、何かに向けて行動を起したかった。
 お昼休みを利用して、分譲マンションの折り込みチラシに、真剣に目を通すことから始めようと思った。
 陸が在席する学生課は主に学生の世話をする部署である。
 お昼休みといえども、常に学生が訪ねてくる。窓口には担当者がいて常時応対するのだが、込み入った用事があると、部屋の中に入ってくることもある。
 それが煩わしく、陸は小さな会議室に入り込み、そのチラシを見るようにしていた。
 その日陸は、その中に良さそうな物件があるのを見つけ、ちょっと心が動かされていた。
 その時、本間悟が会議室へ入ってきた。
 「あっ、なんだ、室田さんだったのか。こんな所で何しているの?」
 本間は、誰もいないと思っていた会議室に、陸がいたのでひどく驚いた様子だった。bXへ

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2008年08月07日

小説・間口

bV
 100ヵ日の法要を終え、一段落すると、陸はとりあえず自宅を出て賃貸マンションに居を構えた。考えてみれば1人暮らしは初めてのことだった。
 もうすぐ40歳になろうという年齢だからこそ、1人暮らしは心細く、将来がひどく不安になる陸だった。
 家族写真のくったくのない笑顔は夢のまた夢なのだと思いながらも、写真に向かってつい語りかけるのが日課になった。
 しかし、陸はいつまでも沈んではいなかった。
 もう誰に気を使うことはない、自由に生きていこうと心に決めたのである。
 決して今までが不自由だったというわけではないが、やはりどこかに母親の存在があった。常に、母を悲しませるようなことはしてはいけない、母あっての私だ、という気持ちだったことは確かだった。
 陸は寂しさと同時に、身体を締め付けていたガードルを外したような開放感を味わっていた。
 今までは、何かといえば、飲みにいこうと誘ってくる係長の本間悟が、とても、うざったい存在だった。
 それは、彼が妻帯者だったことが、無意識に陸の心を縛っていたのだろう。初めから結婚相手にふさわしくない人とは、無駄な時間を過ごしたくなかっただけのことだった。
 しかし、母親の葬儀前後の雑事に関して、本間は親身になってサポートしてくれた。あり難かった。今までの自分のつれない態度を後悔した。
 よく見れば、本間は顔もなかなかハンサムだったし、何より優しく頼りがいがあった。
 今度飲みに誘われることがあったら、OKしようと、陸は密かに心に決めていた。bWへ

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2008年08月04日

小説・間口

bU
 サヨが急死してから100ヵ日が過ぎるまで、陸は季節が変わっていくのを感じないほど、慌ただしい毎日を過ごしてきた。
 相続に関しては、祥太郎と2人で話し合って、全て平等に分けることにした。
 今住んでいる家も土地も、陸1人で住むには大き過ぎ、使い勝手も悪いというので、売却することにした。両親の墓と仏様は祥太郎が引き受けた。
 葬儀から相続に関するまでの必要経費を除いて、全て財産は2等分することになった。
 陸は、今さらながら母がいなくなった重大さを感じる。
父が作った一つの家庭が今まさに崩壊したのである。長い年月を費やして築き上げた財産が、一瞬のうちに煙となって消えていくようで、陸は切なかった。
 「1人ぼっちになってしまったのだ」
 改めて深い孤独感が押し寄せてきた。
 この家を出て行くのはそんなに辛いことではないが、この家が無くなるのは家族の歴史まで無くなるようで悲しかった。母との何気ない日常の思い出が、浮かんでは消えていった。出来れば祥太郎にこの家にそのまま住んでもらいたい。そうすればいつでも仏様になった母や父に会いに来られる。だが、勤め先が東京なら、それも出来ない相談だった。bVへ

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2008年08月01日

小説・間口

bT
 葬儀の喪主は弟の祥太郎が務めた。
 49日までの法要は祥太郎も東京から度々帰ってきて、陸と力を合わせて執り行なった。
 陸はその間、これほど祥太郎を頼もしく思ったことはなかった。彼は社会人として、新聞記者としての確固たる地位があり、またれっきとした家庭人でもあった。嫁は別に何もしてはくれなかったが、存在だけで様になった。子供たちが家の中にいるのも慰みになった。
 ただ、祥太郎はもはや昔の弟ではなかった。彼には母より大事な妻子がいる。陸と決して悲しみを共有するものではなかった。
 49日が過ぎると、臆することもなくさっそく遺産相続の話を持ち出した。
 それは、預貯金、生命保険金も合わせると、思った以上のかなりの金額になった。
 サヨが、何しろ、前ぶれもなく急死してしまったため、遺言などあるはずもなかった。
 祥太郎は全ての遺産を、法定通り、半分にしようと言う。もちろん陸にも異存はなかった。bUへ

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2008年07月30日

小説・間口

bS
 サヨの部屋は、真っ暗だったが、何か異様な空気が流れていた。
「母さん」陸は恐々電気のスイッチを押した。
 サヨが布団の上にうつぶせになりうずくまっていた。
 「母さん!母さん!大丈夫!お手洗いなの?」
 大丈夫ではなかった。あきらかにサヨの身に何かが起きていた。
何か言いたそうにしているが「ああーううー」としか、発することが出来ないのだ。
 さっきまで普通だった母が一瞬にして変わり果てた姿になっている。
 陸は暗たんたる思いに打ちのめされた。
 それでも不思議にも救急車を呼び、自分もちゃんと着替えをしていた。
 サヨは、お手洗いに行こうと布団を出た時に、脳卒中を起しそのまま倒れたと思われた。
 即死を免れたものの、再び元のサヨに戻ることはなかった。
 10日間入院して、肺炎を併発したサヨはクリスマスの夜にあっけなくこの世を去った。まだ64歳だった。bTへ

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2008年07月25日

小説・間口

bR
 陸は39歳になっていた。男関係も、いろいろあったといえばそうでもあるし、何もなかったといえばそうでもある。とにかく、陸の気持は全く若い頃のままだった。自分がもうすぐ40歳になるなんて信じられないことだった。
 母親のサヨは64歳になっていた。
 陸の家は父親が40代の頃に購入したもので、家族4人住むのに一般的な広さの、2階建ての普通の家だった。しかし、陸と母親2人だけになった今、やはり少々広すぎるのかもしれない。
 2人が一緒に居間にいる時はいい。お互いに顔も見るし、会話もする。しかし、いったん陸が2階の自室へ入ってしまうと、サヨの状態は全く把握出来なくなる。まあ、これはどこの家庭も、夫々自室を持っている以上、免れないことなのだろう。
 その日、夜中の3時頃、陸は妙な胸騒ぎを覚えて目が覚めた。そして、階下のサヨの部屋へ導かれるように入っていったのである。
 考えてみれば、今までに、わざわざサヨの部屋を覗きにいくことなどなかったことであった。bSへ

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2008年07月22日

小説・間口

bQ
 陸は小中高大と一貫したお嬢様学校を出ている。父親は大手の新聞社の記者をしていた。しかし、陸が大学4年、弟の祥太郎が大学2年の時、肺ガンであっけなくこの世を去っている。
 幸いに父親にかけてあった生命保険や、退職金で、姉弟は苦労なく大学を卒業した。
 祥太郎は父の後を継いで新聞社に就職し、結婚、子供2人を授かっている。
 一方陸は国立大学の事務局に就職した。使命感を感じて選んだ仕事ではなかったが、それなりに収入がよく、福利厚生もしっかりした職場だった。新聞記者にはなれなかったが、陸は今の仕事にさして不満はなかった。
 祥太郎は所帯を持って東京住いをしている。おのずと残された陸と母親との2人暮らしになった。
 弟に先を越され、親戚からは同情された陸だったが、当人は何もあせっていなかった。時がくれば結婚出来ると信じていたし、母親との2人暮らしはすこぶる快適で、この家を出ていくことなど考えられなかった。それに、陸が結婚して家を出ると、母親は1人になる。母親付きでもいいといってくれる人が、そのうちに現れれないとも限らない。しかし実は、陸はそんなこともあまり真剣に考えたことはない。
 陸がまだ20代の頃は、「私のことは心配しないで、いい人が出来たら結婚しなさい」と言っていた母親も、30代に入ってからは何も言わなくなった。陸の世話をやくことを、生活の糧とし、時々娘と行く旅行を楽しみにしている風だった。
 陸は陸で、母親に家事一切を任せて、自由気ままな生活がとても心地よかったのだ。
 いつしか陸が世帯主、母親が主婦のような生活のリズムとバランスが出来上がっていた。
 年月は、何の不都合もなく過ぎ去っていた。
 しかし、その生活のリズムが、ある日突然途切れることになったのである。bRへ

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2008年07月17日

小説・間口

bP
 室田陸はベッドの上から手を伸ばし、サイドボードに飾っている写真たてを取った。
 両親と弟、5歳の陸。家族4人の記念写真である。
 晴れ着を着て頭にはリボンをつけて澄ましている。2つ違いの弟と陸の七五三のお祝いの時の写真である。
 この頃陸は、周りのものに、大きくなったら何になりたいの、と聞かれると、即座にお嫁さんになるの、と答えていたという。
 さすがに物心がつくと、誰でも時がくればお嫁さんにはなれると分かってきた。それ以降、なりたい職業は新聞記者さんと答えるようになっていた。
 ところが、黙っていても自然になれると思っていたお嫁さんにも、ましてや新聞記者にも、なれていないのである。
 まさかこの年齢になるまで、結婚もせずに1人で生活していようとは、陸は夢にも考えていなかったことだった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 写真の中の両親は今の陸より若い。
 その両親は既にあの世の人になっていた。
 両親が早くに亡くなったから、人生が狂ってしまったのか。
 幸せだった頃の家族写真を見つめながら、「いいえ、きっとそんなことじゃない、わたしがただボーッとしていただけ、決して父さん母さんのせいじゃないよ」と、自分に言い聞かせていた。bQへ

(上記小説・間口は、カテゴリー〔短編小説・つぶらなひとみ〕で連載中)
posted by hidamari at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 短編小説・つぶらなひとみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする