2008年03月18日

小説・優しい背中

66
 絵里子は、うん?と思ったが、一応、
 「はい、お蔭様で…」と答えた。
 しかしやはり、柴谷の言ったことばに、何か違和感があった。
 身体のあらゆる部分の細胞が、ひとつひとつパチパチと切れていくような感じがした。そしてついに全身が切れたと感じた時、スッコーンと、何かが転がり落ちていったのである。何かが…。
 柴谷の声が遠のいていった。顔がかすんでいった。
 今の今まで、あれほど熱かった恋慕の情が、スーと水が退くように消え去っていった。
 いったい、何がおきたのだろう。
 2年余り、1日たりとも彼のことを想わない日はなかった。苦しいこともあったが、彼のことをあれこれ想うだけで幸せだった。
 そんなせつない想いも、いつかは自然に消えていくのだろうとは思っていた。しかしそれには、少なくとも4〜5年はかかると思っていた。
 それが、こんな一瞬のうちに、見事に無くなってしまうとは。
 痛んで眠れなかった虫歯が、何かの拍子で抜け落ちたような、不思議な軽快さだった。

 夫の泰三のことを、バカにされたからなのか。
 それが、取りも直さず、絵里子自身を踏みにじられたように感じたのか。
 尊敬し、恋い慕っていた男が、実は普通の男だと分かったからなのか。
 愛は片方だけでは成り立たないということを、改めて知らされたからなのか。
 はたまた、ずっとないがしろにされていた積み重ねが、柴谷の一言にショックを受け、いきなり爆発したのか。
 とにかく、あっけない、柴谷への恋慕の幕切れだった。
 柴谷への愛が、一瞬にして泡となって消え去ったことに、自分自身驚くばかりだった。
 「お元気で」と、柴谷に軽やかに挨拶して、女性だらけのそのテーブルを離れた。
 その時絵里子は、生まれ変わったような爽やかな気持だった。
 その後、かつて隣の席にいた、平林啓太や、副支社長の荒井健介と、他愛の無いおしゃべりをした。何気ないその場の穏やかな雰囲気が限りなく貴重に思えた。絵里子は心から楽しんだ。感謝の気持でいっぱいだった。幸せだった。
 何もかも新鮮だった。
 やがて、パーティーは終了した。
 絵里子は、いつになく、自宅が恋しかった。
 自宅には、夫の泰三が待っている。
 一刻も早く泰三の温和な顔が見たかった。
                           完

(上記〈小説・優しい背中〉は今回をもって完結しました)

posted by hidamari at 12:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月15日

小説・優しい背中

65
 絵里子が座っている所へ、入れ代わり立ち代わり、かつての同僚がお祝いを言いにきて、しばらく雑談をしていく。
 話しかけてくる人が途絶えてきた頃、絵里子は運よく柴谷の姿をキャッチすることが出来た。
 柴谷の周りには女性が詰め掛けていた。それは柴谷がたまたま女性の多いテーブルに紛れ込んだのかもしれなかったが。
 特に、両脇に女性がぴったりついていて、その彼女たちと話しが盛り上がっている様子である。
 その中に割り込んでいくのは、やはりはばかられる。しばらく待った。ところがなかなか状況は変わらなかった。
 柴谷は、絵里子に対しては決して雄弁ではなかった。絵里子は彼の無口がもどかしいくらいだった。その柴谷が女性とこんなに気さくに話しているのが驚きだった。
 これが、彼の本来の姿なのだろうか。絵里子は、今さらながら、柴谷のことを何も知らないことに気付かされたのである。
 しかも、女性たちがほんとうに嬉しそうにしているのだ。きっと、これを、もてている、と言うのだろう。
 いつまで待っても柴谷の両脇が空くことはなかった。
 もう待てなかった。思い切って行動を起こした。
 後から、柴谷の背中を突付いて、無理にでも話しかけるしかなかった。
 「部長さん、お久しぶりです」
 柴谷は振り返った。
 「ああ―君、久しぶりだね。永年勤続だって?おめでとう」
 「有難うございます。今日部長さんがお見えになるとは思いませんでした」
 横にいた女性に悪いとは思ったが、自分が割り込むと、いやいやながらも、場所を少しずってくれると思っていた。
 しかし、その女性は微動だにしなかった。
 柴谷は、懐かしそうにはしたが、絵里子のために場所を空けようとはしなかった。
 割り込んだ絵里子を、女性たちは、明らかに非難の眼差しで見ていた。
 絵里子は、既に居たたまれない気持でいっぱいだった。
 かといって、そこを立ち去ることは出来なかった。なんとか、まだ、柴谷と話しがしたかったのである。
 そんなせっぱ詰まった絵里子の気持を知ってか知らずか、柴谷は、ほんとうに何の感慨もない様子で言ったのである。
 「君、どうした?人の良い旦那。その後うまくやっている?」66へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月12日

小説・優しい背中

64
 柴谷の存在は、妄想の世界でますます美化されていたのかもしれない。絵里子はますます柴谷に傾倒されていた。
 とはいっても、何のアクションをするわけではなく、ただ心の中で想い続けていただけなのだが。
 ちゃんとした夫がいるにもかかわらず、何も実体のない恋人を、好きだと思う気持や、悶々としたやるせない気持が、今絵里子が生きている証になっているのだ。それは彼女自身にも、不思議に思えることだった。

 5月、福岡支社では、創立30周年記念式典が開催された。
 博多港倉庫からも、広木監理部長と絵里子が出席した。
 絵里子は永年勤続表彰を受けることになっている。
 この式典が開かれることを知ってから、絵里子の頭の片隅に、歴代の支社長も出席するのでは、と思わなかったわけではなかった。
 ただ、現在、宣伝部長として繁忙な職責の中、式典だけのためにわざわざ来ないだろうと、すぐに打ち消したのだ。ぬか喜びはしたくなかった。
 その日、本社から社長以下数名の社員が出席していた。
 その中に、何と柴谷の姿があったのである。
 その懐かしい姿を確かに目にした時、絵里子の心臓は、音をたてて波打ち始めたのである。
 そして、式典の間中、頭が真っ白になっていた。
 いつ、どんな風にして壇上に行き表彰状を受け取ったのかさえ、殆んど無意識状態だった。
 絵里子が落ち着きを取り戻したのは、式典終了後、東部ホテル大広間で開かれたパーティー会場だった。
 そこには関係者100名余りが参加していた。立食式のその会場には大勢の人がごった返していた。
 柴谷がどこにいるのか気になったが、すぐに彼を探すのもさすがに躊躇させられた。
 絵里子は香りに誘われ、ワインを所望していた。そしてグラスを手に、取敢えず、サイドに設置されている椅子に腰をかけた。65へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)
posted by hidamari at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月06日

小説・優しい背中

63
 それから1年が通り過ぎていった。
 絵里子は45歳になっていた。女性としてだんだん衰えていることを、身を持って感じ始めた年でもあった。

 1年前、柴谷が本社へ栄転になることを知った絵里子は、プレゼントを持って本人に密かに手渡すため、福岡支社に出向いたのだった。
 プレゼントを渡す時いつもそうしたように、事務用茶封筒にプレゼントの品物を入れて、「最後のお仕事です」とお茶目に言って渡した。
 その中には、普通に1万円入れたお餞別と、考えた挙句買った機能の優れた電子手帳、それに長いラブレターが入っていた。
 柴谷は、封筒をちょっと覗いてすぐに察したようだった。
 「有難う、お世話になりました。お元気で」と、あたり触らぬ挨拶をしただけだった。
 絵里子は、それでも満足だった。不愉快そうな顔もせずに、受け取ってくれたことが嬉しかった。
 柴谷の毅然とした態度を寂しく感じながらも、絵里子はそれを黙って受け入れるしかなかった。絵里子はもう見返りを求めることは諦めていた。ただ自分の気持ちに素直になっていただけだった。自分の気を沈めるために、そうせずにはいられなかったのだ。
 絵里子が柴谷を慕う気持はいっこうに留まることなくますます膨らんでいくようだった。
 1つは、世話をする娘の美里が手許にいないこともあった。
 夫の泰三も、仕事、ゴルフと、家には寝に帰ってくるだけだったこともある。
 とはいえ、昼間は、仕事の繁忙さに追われて、他のことは頭に無い。むしろ、このところ軌道に乗った自分の仕事が楽しくて仕方がなかった。側からはいきいきと働いている姿が輝いて映っていたに違いなかった。
 その反動なのだろうか。プライベートの時間のつまらなさが、増幅されたのだ。
 夜になると、柴谷のことばかり考えるようになっていた。
 当然、柴谷とは、1年間、会うことはもちろん、電話をすることも、手紙を書くこともしていない。
 柴谷の存在が自分の中でどんどん大きくなっていくのが、返って心地良かった。
 忘れたくなかった。想い出を呼び戻す楽しみがあった。
 このところ、眠る前に柴谷のことをあれこれ想い浮かべると、その続きを夢の中で見ることが出来るのだ。そんな日の朝は、幸せな余韻がそこはかとなくいつまでも残っているのだった。64へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月03日

小説・優しい背中

62
 「部長で戻られるのですか?」
絵里子は、本当はとても動揺していたのに、ことさら冷静を装っていた。
 「宣伝部長だそうだ」
 「それはご栄転で、よかったですね」
 「まあ、将来の重役候補だからね。で…君、餞別、どうするの?わたしはこれから挨拶に行こうと思っているんだ。一緒にどうかと思って」
 「どうしましょう?私ごときが…、かえってご迷惑では…。同じ職場ではないわけですし」
 絵里子は口ではそう言ったが、心の中では、広木とは別に、何か特別なものを気持を込めて贈ろうという思いがあったのである。
 「そうだなあ、これからますます遠くの人になるから、必要ないかもなあ。悪かったね」
 「いえ、とんでもございません。声をかけて下さってありがとうございます」
 絵里子は、何でも話してくれる広木の気さくなところが好きだった。今回も柴谷に特別な感情がなかったら、広木に頼んで彼と行動を共にしていただろう。
 でも、こと柴谷に対しては、1人でちゃんと挨拶がしたかった。
 
 今までは会おうと思えばいつでも会えるという、心のよりどころがあった。
 今後は、この福岡から、柴田の姿がきっぱりと消えてなくなる。
 柴谷はきっぱりと遠い存在になってしまうのだ。
 自分は柴谷の存在を断ち切ることが出来るのだろうか。
 ただいやおう無く現実に柴谷はいなくなってしまう。
 この先は、忘れるしか仕様がなかった。徐々に時間が解決してくれることを望むしかなかった。
 絵里子は、そんなことを悶々と考え、デスクに座っても、しばらく仕事が手につかなかった。63へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月01日

小説・優しい背中

61
 里美の入学式を終えて久しぶりに絵里子が出社すると、広木が待っていたかのように、絵里子を呼びつけた。
 「長いこと休んですみませんでした」と、絵里子が深々と頭を下げると
 「そんなことはいいのだが、君知っているか。柴谷支社長が東京本社へ戻られること」
と、言った。
 それは、当然予想出来る異動だった。本社から出向している支社長が、2年で本社へ戻るのは、過去にもめずらしいことではないのだ。
 もちろん絵里子にも分かっていた。ただ、そんな辛いことは考えたくない。極力考えないようにしてきていた。しかし、現実は容赦なかったのだ。
 柴谷にもう会わないと言われた絵里子は、その後は、さすがに何もアクションをかけることは出来なかった。それだけに、柴谷への想いは悶々として心の中でくすぶり続けていたのである。
 ただ、会おうと思えば支社に出向けばいいのだ、という思いがあった。それがあったので、ずっと堪えていられたのかもしれなかった。

 そんな中で絵里子が、この1年間で柴谷と会ったのは2回である。会ったといっても、支社の中でほんの1〜2分、しかも絵里子からの一方通行だけのものだったのだが。
 1回目は柴谷の誕生日、2回目はバレンタインデーである。
 両方ともプレゼントを渡すだけのものだった。プレゼントには手紙を添えた。バレンタインデーには、自分が綺麗に撮れていると思った最近の写真を同封した。すぐに廃棄して下さい、と書くことは忘れなかったが、言わなくても廃棄されることは分かっていた。それでも贈ってしまう自分が哀れではあった。
 しかし、不思議なことに、嫌がられると思いながらもプレゼントすることに喜びがあったのである。受け取ってもらえるだけで満足だった。
 それは、まるで、ヨン様を追っかけるおばさんファンのような心境だったのかもしれない。62へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月27日

小説・優しい背中

60
 3月末から4月にかけて、入学手続き、家財道具の寮への搬入、入学式と、絵里子は里美と共に3回も上京した。その度に、会社も休まなければならなかったが、広木は、嫌な顔もせず休暇を認めてくれた。福岡支社ではこういうわけにはいかなかっただろう。絵里子は職場の現状に、心から感謝したのである。
 娘が夢へ向かって羽ばたく時、母親として娘と一緒に行動できることは、とても楽しいものだった。こんなに晴れがましい体験が出来る幸せを噛みしめていた。
 入学式に列席した後、その日は親娘2人して、ホテルに泊まった。
 絵里子は、その時はまだ、その後にくる火の消えたような寂しい生活が待っていることを考えていなかった。里美と同じように有頂天な日々だったのである。
 絵里子が、日常の自分を取り戻したのは、福岡に帰ってからだった。
 2階の里美の部屋へ足を踏み入れたとたんに、涙が止めどもなく流れてきた。
 そこにいつもあった里美の笑顔がなかったのだ。これからずっといないのだと思うと、耐えられない寂しさが込み上げてきた。子供のように声をあげて泣いていた。大人になってもこんな風に泣けるのを初めて知った。
 いつのまにこの部屋に来たのだろうか。夫の泰三が、絵里子の肩を抱いていた。
 「俺がいるじゃないか、それに連休には帰ってくるよ」と言った。
 そんなことは分かっていた。が、涙は後から後から出てきたのだ。絵里子はなりふりかまわず、泰三の胸の中で泣き続けた。
 気の抜けたような寂しさは、それからも、ことあるごとに、絵里子に襲ってきたのである。61へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

小説・優しい背中

59
 受話器の置かれるガチャンという音が、耳の奥に残っていつまでも消えなかった悪夢のようなあの日から、1年が過ぎていた。
 柴谷のことは、未だに浄化することなく、心の奥底でじくじくとくすぶっている。
 しかし、この1年間、母親絵里子にとっては、怒涛の中で過ごすような生活だった。
 里美を希望の大学へ合格させるために、娘と共に必死に頑張った。夫の泰三も時々は手伝ってくれたが、夜の塾への迎えは絵里子の仕事だった。塾から帰宅すると、遅くまで勉強する里美に、夜食を作ったり、健康管理をしたりして、勉強できる体制を細やかに作ってやらなければならなかった。何もかも里美に合わせた生活をした。
 そして晴れて合格通知を手にした時、絵里子と里美は、思わず抱き合って喜びを分かちあったのである。
 家庭では大変だったが、職場の仕事は楽な感じだった。ただ、毎日与えられた仕事をこなせばよかったからだ。給料はある程度下がったが、業績を上げるプレッシャーがないのは何より有難かった。
 管理部長の広木は、太っ腹の気のおけない人間だった。絵里子とは元々相性もよかったこともあるが、毎日冗談を軽快に交し合い、笑い声が絶えなかった。こんなにお気楽に仕事をやっていて良いものかと、時々不安に思うこともあるほどだった。
 絵里子は、今、何もかもうまくいっていると思っていた。60へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月22日

小説・優しい背中

58
 絵里子が席を立ったその時、デスクの電話が鳴った。
 ドキッとした。一瞬不吉な予感がしたが、まさかとも思った。
 「もしもし、大城さんいらっしゃいますか」
 紛れもない愛しい柴谷の声だった。
 柴谷とは、結局、携帯番号の交換もメールアドレスの交換もしないままだった。
 以前、絵里子が何気なく「電話していいですか」と、聞いたことがあった。柴谷は「携帯に履歴が残るのイヤなんだ」と言った。その時はひどく傷ついたが、それほど私のことを秘密にして、大事にしているんだ、と良い方に解釈出来ないこともなかった。
 絵里子の方も、実はその方が好都合だったのかもしれない。夫の泰三は、妻の携帯を覗くことは決してしないのだが、娘の里美は機能のチェックや、待ち受け画面のチェンジなどを進んでしてくれるのだ。その時、メールを読むこともあるらしく、「ママ、この人とはどういう知り合い?」と興味を持つこともあるのだ。娘にだけは隠し事は出来なかったのである。
 お互いが暗黙の了解で、連絡は成り行き任せになっていた。
 柴谷は、今日のデートのことで何らかの連絡をしてきたのだと思った。
 「はい、大城です、こんにちは」
 「柴谷です、こんにちは。今日のことだけど、僕やっぱり行けないから。すみません」
 事務的な淡々とした口調だった。
 今日のここまで何の連絡もなかったので、もう大丈夫だとほっとしていたところだった。絵里子は全身から力が抜けていくのを感じた。知らぬまにしゃがみ込んで受話器を握りしめていた。
 「そうですか…、で来週は空いています?」
 「だから、もうダメ、会えないよ」
 「……」
 「それじゃね」
 柴谷は、きっぱりそう言って受話器を置いた。
 絵里子は、受話器を握りしめたまま、呆然としてそのまましゃがみ込んでいた。59へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)
posted by hidamari at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月18日

小説・優しい背中

57
 毎日、あっという間に1日が過ぎていった。
 最初は、180度変わった仕事内容に戸惑うこともあったが、それも慣れるに従ってそれなりに充実感を得られるようになっていた。
 絵里子がそれほど落ち込まずに毎日を笑顔で過ごすことが出来たのは、心の奥底に密やかな楽しみを温めていたこともある。
 それは送別会の宴会の席で、柴谷に渡した手紙に書いた内容だった。
 [4月第3週目の木曜日、夜6時頃、喫茶店スワンで待っています。ご用がなかったら来て下さい]というものだった。
 あの日、柴谷から「別れよう」と、宣告されたが、一方的な言い方に絵里子は納得がいかなかった。それに柴谷も本気で言っているとはどうしても思えなかった。なぜなら、柴谷が突然心変わりしたとは思えなかったし、絵里子が彼に嫌われるようなことをした覚えもない。
 絵里子だって、いつまでも柴谷に迷惑をかけるつもりはなかった。
 恋焦がれる気持もいつかは自然消滅し、やがては思い出に変わっていくことだろう。
 でも、今は無理だった。絵里子にとって、柴谷の存在は生きる糧だった。またいつか会えると思うと、それを楽しみに、いきいきと暮らしていけそうな気がしていた。
 柴谷からその後、何の連絡もない。ということは、彼はきっと都合をつけて会いにきてくれるのだ。
 スワンにきっと来てくれると思った。
 木曜日が近づくにつれて、絵里子は徐々に落ち着かなくなっていた。
 そして、やっとその木曜日がやってきた。
 運よくその日、絵里子は早出、早退の日だった。
 午後3時、絵里子は、高鳴る気持を抑えて、退社しようとしていた。1度自宅へ戻り、夕食の準備をするつもりだった。それから出かけても、待ち合わせにはゆっくり間に合った。58へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)
 

posted by hidamari at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月15日

小説・優しい背中

56
 昨日まで家族以上に近しい人だったルソン福岡支社の仲間たちと、4月になったとたんに無縁になるのが、覚悟していたこととはいえ、絵里子にはやはり虚しいことだった。
 我が家同然のように知り尽くしたオフィスで、一喜一憂したいろいろな場面の情景が、走馬灯のように浮かんでは消えた。
 特に柴谷と仕事を通して接した最後の1年間、また朝の斜光の中での儀式等、全てがパノラマになって、遠くにかすんでいった。
 この1年間は、絵里子の人生の中でも1番彩られたものだっただけに、何もかもが愛しかった。
 もうあの幸せだった時間は2度と戻らないのだ。
 そう思うと、改めて、1日のうちに何もかも変わった現実を思い知らされた。
 新しい職場の博多港倉庫は、今までの職場と雰囲気がまるで違っていた。
 それはデパートと小売店ほどの違いだった。
 事務所には広木管理部長の他に、中年の男性社員、若い女子社員、バイトの女の子の、4人がいるだけの小じんまりしたものだった。
 ただ倉庫の方には、たくさんの派遣社員が働いている。事務所は、彼らを使って品物を受け入れたり、発送したりする仕事をするのである。
 最初の1週間、絵里子は、仕事の概略を把握することに明け暮れた。
 慣れない職場は、その空気を吸うだけでも疲れるものだった。夜は泥のように眠るだけだった。
 眠る前に柴谷のことがふと頭をよぎるが、幸か不幸か、疲れきった身体は、男に恋焦がれる気持ちより、睡魔の方が強かったのである。57へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月11日

小説・優しい背中

55
 「僕たち別れよう」
 柴谷はいきなりそう切り出した。
 今夜の主賓3名は上席に座らされていた。しかし、時間が経つに連れて、宴会の席が徐々に乱れていった。絵里子の周りには、入れ代わり立ち代り誰かがお酌をしにきたが、ある瞬間、ぽっかり誰もいなくなってしまった。ちょうどその時を見計らったように、柴谷が絵里子の側に寄ってきた。
 絵里子は、柴谷がいつかは挨拶に来てくれるだろう、と心待ちにしていたので、ずっと席を立てずにいたのだ。
 来てくれた安堵感を、実感する間もなかった。
 「えっ!…別れるって?」
 「そう、もうこんなこと止めよう」
 絵里子は、柴谷のことばを頭の中で復誦していた。そして
 「別れるって、私たちそんな間柄だったんですか?別れるなんてことば、恋人同士か夫婦の間でしか、なりたたないのじゃないですか?私たちそんな親密な関係じゃないですよね」と、言った。自然に口から出たことばだった。心から柴谷への訴えだったのだ。
 いつかは言われそうな気はしていた。しかし、こんな時に、こんな場所で。
 それなのになぜか、以外に冷静でいられた。めげてはいなかった。
 「これ後で読んで下さい」
 ハンドバッグから手紙を出して、柴谷のポケットに突っ込んだ。これはずっとシミュレーションしていたことだった。すんなり出来た。
 その時、平林啓太がビール片手に近寄ってきた。
 そして、2人の間に割り込むと、
 「支社長と大城さんの2ショット、隅におけませんね」と言った。
 かなり酔っている。冗談でも、支社長に向かって素面では言えることばではなかった。
 「じゃあー新天地でも頑張ってね」と柴谷は絵里子に言い残すと、さっさとそこから去っていった。
 柴谷と絵里子の会話は、その間3分も経っていなかっただろう。あっという間の出来事だった。
 「支社長と親密に何を話していたのですか?別れ話だったりして」と、啓太は興味深そうに、絵里子の顔を覗き込んだ。
 いつもなら、軽く受け流すことが出来る絵里子だが、今夜はそんな気になれなかった。
 「ごめん、平林君。ちょっとお手洗い行ってくるから」
 そういうと、逃げるように宴会場を抜け出したのである。56へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月09日

小説・優しい背中

54
 3月末、絵里子は送別会を何回も開いてもらった。
 考えて見ると、入社以来20年余り勤めてきたルソン福岡支社である。ここを去るということは絵里子にとっては、柴谷のことがなくても、人生の大きな転機の一つになることは確かである。感慨はひとしおだった。
 しかし、送別会は、絵里子には、そんなに気分の良いものではなかった。
 女性グループ、総務企画部、取引先の渉外担当のグループなど、こぞって開いてくれたが、持ち上げられれば持ち上げられるほど疎外感がおそってきた。
 社会人である以上、他人の好意を無には出来ない。絵里子は、笑顔で受けるしかなかった。自宅には花束の花だらけになった。娘の里美は、
 「ママ、すごいじゃん、人気者なんだね」と、無邪気に驚いている。
 そんな中で、会社全体の送別会が開かれた。いよいよこれが最後の送別会だった。
 人事異動発令以来、絵里子は、柴谷とプライベートなことを何一つ話していなかった。
 話したいといつも思っているのに、2人きりになる場面はなかなか訪れてはくれなかった。そうかといって、わざわざ支社長へ出向いて話すことではなかったし、そんな時間もなかった。
 絵里子は柴谷と、今後も時々会う、という約束をしたかった。どんなことがあってもそれだけは約束してもらいたかった。
 仕方なく絵里子は、そのことを、いつものように手紙にしていた。そして、いつか機会があったら渡そうと、常にバッグに忍ばせていたのである。
 今夜の送別会が最後のチャンスだった。55へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月07日

小説・優しい背中

53
 人事異動発令書が掲示されたのは、それから3日後のことだった。
 大城絵里子(博多港倉庫へ)南田陽一(東京本社へ)岡田征二(退職)
 本人には夫々知らされていたことだったが、他の社員は皆一様に驚いたようだった。
 特に、絵里子は、社の中では重鎮的な存在で皆から信頼されていた。
 倉庫には、恵理子でなくても他に誰かいただろうにと、同情されるほどだった。
 当の絵里子は、たんたんとしていた。むしろ、新しい仕事へ向けて、意欲さえ沸いていた。
 隣の席の平林啓太が
 「大城さんがいなくなったら僕困ります。大城さんも支社長と会えなくなるのが、寂しいですよね」と、言った。
 それにしても、平林は、どこまで柴谷と自分とのことを知っているのか。
 もっともらしく言うのが、腹立たしくもあるが、たぶん憶測で、かまをかけているのだろう、と思った。
 絵里子は、
 「そうだよ、平林君、分かってるじゃない。心残りはそれだけね」
と笑って受け流した。
 しかし、平林の言ったことは、正に絵里子の今の心情だったのである。54へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月04日

小説・優しい背中

52
 支社長室をどういう風に出てきたのか絵里子は覚えていない。
 これが夢の中の出来事ではないと分かったのは、席に戻って10分はたっていただろうか。
 しかし、冷静になるとちっとも理不尽なことではなかった。
 自分だけは大丈夫と思い込んでいたことが招いた混乱だった。
 何も博多港倉庫へ転勤になることは、絵里子にとって、そんなに嫌なことではなかった。会社勤めをしていれば、転勤など、どこでもありえることなのだ。しかも、よく知っている前支社長広木の元で働けるという。むしろラッキーではないのか。
 それなのに、さっきはどうしてあれほど動揺したのだろう。
 きっと柴谷は絵里子の涙を見ただろう、と思った。
 自分の大人気ない態度が、今とても恥ずかしかった。
 ただ、柴谷に会えなくなることは、絵里子にとっては、やはり一大事だったのである。
 今まで出社さえすれば、柴谷に毎日会うことが出来た。
 たとえ、一言も言葉を交わさなくとも、いつも背中に柴谷の温もりを感じていた。それはカシミアの毛布に包まれているような、心地良い安らぎだった。
 それが、4月からはぱったり断ち切られるのだ。職場が変わる不安よりも、柴谷に会えなくなる不安が大きかった。
 しかし、その不安も、冷静になってよく考えれば解決出来そうな気がした。
 今後も、柴谷との関係を保てばいいのだ。そうするとまた会える。
 同じ福岡市内にいるのだ。会おうと思えば会えるだろう。いや、むしろ、好都合かもしれない。同じ職場内の恋愛はタブーでも、別な所なら許されることもある。柴谷もきっとそう考えたのだ。
 絵里子は、自分の都合の良いように考えていた。そうすると、絶対そうだと思えてならなかった。53へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月01日

小説・優しい背中

51
 3月に入った。柴谷はいよいよ人事異動の発令をしなければならなかった。
 月初めの社内定例会議の中で、数日後に、4月1日付異動者を掲示板に貼り出すことを発表した。社内は一瞬緊張した空気が流れ騒然とした。ただ、夫々が自分だけは関係ないだろうと、どこかで高をくくっていた。
 絵里子もその中の1人だった。
 もしかしたら異動するのは自分かもしれない。ふっとそう頭をかすめないこともない。が、それなら、今までに何らかの打診があってしかるべきだろう。何よりも自分はこの会社に貢献しているという自負があった。社員数の確率からしても、まず大丈夫だろうと思った。
 しかし、はっきりしているのは、自ら退職を申し出ている販売部の岡田征二だけであった。
 定例会議があった日の午後、絵里子は副支社長に、支社長室に行くように指示された。
 改まって何だろう?
 絵里子が支社長室へ入ると、柴谷はデスクから応接台の方へと移動してきた。
 「まあ、お座り下さい」と、言いながら自分もソファーに腰を下ろした。
 「大城さん、今までよくやってくれました。あなたの我が社における貢献度は高く評価されています」
 最初は何のことだろう、と必死に柴谷のことばを解読しようとした。そのうちにだんだん分かってきた。とても信じられない。
 「それで、大城さん、貴方には4月からは博多港倉庫に行ってもらいます。広木管理部長から英会話が出来る人をぜひよこしてくれと言われていたんです」
 その後、もう柴谷が何を言っているのか聞き取れなかった。遠くの方で誰かが何かを吠えているという感じだった。頭は真っ白なのに、涙だけが溢れ出てきた。絵里子は頭を上げることが出来なかった。柴谷に涙は見られたくなかった。
 博多港倉庫に転出することに異議があるわけでは、決してなかった。52へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月30日

小説・優しい背中

50
 柴谷祐樹は40歳の男盛りである。今正に精神的にも肉体的にも充実していた。福岡支社長としての実績も着実に上がっているのは、誰もが認めるところであった。うまくいけば重役の椅子が待っている。
 ささいなことで失敗はしたくない。絵里子が自分の足を引っ張ることはないだろう。だがやはりこの先何がおこるか分からない。不安材料は取り除いておくにこしたことはないのだ。
 良いあんばいに、3月になれば、彼女とも円満に別れられるだろう。それまでは、彼女をあまり刺激しない方がいいと考えた。
 もともと絵里子は頭のいい女である。男にのめり込んで身を破滅させるタイプではないことも分かっている。それをいいことに、今まではずるずると彼女の言いなりになってきたが、別れる時くらいは、自分からきちんと言うつもりだった。
 バレンタインデーに、絵里子は手紙を添えてチョコレートとネクタイをくれた。
 彼女は、それらのものを事務用の大きな茶封筒に入れ、「親展文書です」と言って、堂々と支社長室の柴谷のもとへ持ってきたのである。
 何も知らない柴谷は、「有難う」と、目の前で封を切った。
 それが、彼女からのプレゼントだと分かり、不覚にも顔が赤くなった。
 絵里子はそれを見て、申しわけなさそうに「すみません」と言って部屋を出ていった。
 彼女がすることはいつも大胆だった。手紙の内容も柴谷が赤面するようなことばかりを書き綴ってあった。その場で一気に読み終えると、すぐに小さく破いて反古封筒に入れ、さらに、くしゃくしゃにし、ゴミ箱に捨てた。少女みたいなことをする絵里子を愛しいと思わないことはないが、今の柴谷にはやはり少々重かった。もともと最初から大人の付き合いだったはずなのに、今さら愛の告白もないものだった。
 絵里子はいったい何を考えているのだろうか。
 まあ3月まで、彼女が好きなようにすればいいと思った。お返しをするつもりもお礼を言うつもりもなかった。 柴谷は常に自分の感情をきっちり抑えることが出来た。言いかえれば、絵里子に対する愛は絶対的なものではなかったのだ。たぶん絵里子も同じはずだと柴谷は思っていた。51へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月28日

小説・優しい背中

49
 忘年会以後、柴谷と絵里子はデートをしていなかった。
 2人が共に出席する仕事上での飲み会が、忘年会以後何回か行われていた。もし、2人がその気になれば、その宴会後にデートが出来ないことはなかったのだ。
 実際、絵里子はそのうちのある時、―喫茶店スワンで待っています―と書いたメモを柴田に渡したことがある。
そしてその宴会後、会場を先に出た絵里子は、スワンで30分以上待っていたが、そこに柴谷は現れなかった。
 翌日柴谷からは何の言い訳もなかった。また、聞く機会もなかった。さすがに絵里子は自分が惨めで情けなかった。
 もともと絵里子は、柴谷の方から誘ってもらえることを、露ほども期待はしていない。思惑どおりというべきか、彼からモーションがかかることは一切なかったのではあるが。
 しかし、それだからこそ、好都合なこともあった。
 絵里子は、夫のある身で、しかも大学受験生の母親である。たとえ柴谷から誘われることがあったとしても、都合が悪い時があるかもしれないのだ。そんな時、はたして誘いを拒むことが出来るだろうか。出来るはずがなかった。そういう事態が続けば、そのうちにきっと2人の密会は家族にばれることになるだろう。
 その時は一巻の終わりだ。2家族の破滅に繋がるどころか、柴谷の将来にもかかわる一大事になる。
 それがよく分かっているので、絵里子は十分に注意を払っているのだ。
 しかしチャンスとなると、恥も外聞も捨てて、自分の感情の赴くままに行動した。
 それは、獲物を見つけた狼のような大胆さだったかもしれない。
 そして今、絵里子はチョコをどんな風に、柴谷に渡そうかと思案していた。相手が喜んでくれるかというより、渡すことに意義を感じていた。渡す欲望を果たしたかった。
 こんなくだらないことに心血を注いでいる43歳の、―絵里子は12月で1つ年齢を加えていた― 自分の姿が、ふっと恥ずかしくなることもあったが、それもいっときだった。50へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

小説・優しい背中

48
 バレンタインデーだからといって、商業ペースに乗って、男性にチョコレートを送るバカげた習慣は、いつかはすたれるだろう、と絵里子はずっと思っていた。
 娘の里美にも、「男の子に普段お世話になっているわけではないでしょう。女の子の方からあげる必要ないよ」と、言って暗に阻止してきた。
 「そうだよね。女子は損だよ」と、口ではそう言っているが、里美が内緒でチョコを買っているのを、絵里子は知っていた。
 絵里子は、バレンタインデーには批判的だったにもかかわらず、今回、その日が近づくに連れて、胸がわくわくするのを禁じえなかった。
 そして、その日のために、わざわざめったに行かないデパートへ出向いたのである。
 1階のフロアーは、まさにバレンタインデー一色だった。
 その特設売り場には、豊富な種類のチョコが色とりどりに飾られ、山積みされている。
 絵里子は、あれこれ物色しながら、なんともいえない気恥ずかしさと、若やいだ気分を味わっていた。
 愛する男性に想いを伝える手段があるのを、使わない手はないだろう。絵里子はただひたすら柴谷のことを想って、チョコレートを選んだ。
 びっくりするほど高価だったが、ちっとも、もったいないとは、思わなかった。
 家族で食べるため、ちょっと安めの物も買った。
 娘の里美は、それを見て、きっと「どういう風の吹きまわし?ママ、バレンタインデー反対派だったんじゃなかった?」と、言うかもしれない。
 その時は「たまたまデパートの前を通ったら、賑わっていたので覗いてみたの。普通こんな豊富なチョコないでしょう! めずらしいのがあったから、ついつい買ってしまったのよ」と、言おうと考えていた。
 実際、そんなことを思ったのも事実だったからだ。49へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 21:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月24日

小説・優しい背中

47
 絵里子は、あまり愛されてもいないのに、こんなに無理をしてまで、どうして柴谷との密会を続けているのだろう、と思うことがある。
 決してセックスが好きなわけではない。
 それにそっちの方は泰三と至極うまくいっている。
 夫の泰三とは、もともと相性がいいのか長年培って得たものなのか、短い時間ですぐエクスタシーに達し、それが長く長く続く。泰三とはセックスにおいても最高の関係と絵里子は思っている。
 それに比べると、柴谷は頂点に達するまでに、長い時間を要した。
 初めての時、絵里子は自分の体に魅力がないせいだと、申訳ない気持ちでいっぱいだった。
 「ごめんなさい、貧弱な身体で」と、言って謝ったりもした。
 柴谷は「そうじゃないんだ、俺いつもエンジンがかかるの、時間がかかるんだ」と言った。
 絵里子は―支社長職で仕事のストレスが溜まっているんだ―と思った。
 柴谷とのセックスは、泰三のそれと違い、むしろとても疲れることだったのである。
 しかも、絵里子は柴谷に、ネクタイ、ベルト、ワインと、プレゼントも贈っていた。それに対して、1度もお返しをもらったことがないどころか、お礼も言ってもらったことがない。ネクタイは締めているのさえ、見たことがないのだ。
 そんなワンサイドの恋愛を絵里子はしているのである。
 絵里子自身、柴谷のどこがこんなに好きなのだろう、と考えてしまうのでる。
 思い当たることは、身分が自分よりずっと上の人だからかもしれない。普通ではありえない手の届かない人との禁断の恋だからこそ、燃えるのだろう。だからこそ、一方的でも、ちっとも悔しくない、見返りも何もいらないのだ。
 憧れの人と2人きりでいるという真実、身体を寄せ合っているという真実だけで、蜜の味がするのかもしれない。そうとしか考えられなかった。48へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

posted by hidamari at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説・優しい背中 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする