2008年01月22日

小説・優しい背中

46
 絵里子と柴谷の関係は、デートに関しては常に絵里子が主導権を持っていた。主導権といえば絵里子の立場が上のようだが、言いかえれば柴谷があまり積極的ではなかったということかもしれなかった。
 ただ、柴谷も誘われると、イヤとは言わなかった。デートはそれなりに心地いいものだったし、やはり絵里子に魅かれるものがあったことも確かだった。
 しかし、やはり妻に対しても、絵里子の夫に対しても罪悪感がある。いつかは止めなければならないことは分かっていた。深みにはまらないうちに、めんどうなことがおこらないうちに別れようと、日を経つごとに思うようになっていた。
 今日はそのことを言おう、と柴谷は密かに決心していた。
 絵里子の白い肌は40歳を越えているとは思えないほど、弾力があり、艶やかである。胸は今まで付き合った女性の誰よりも小ぶりなのだが、仰向けになっても形がちゃんとあって、しこしこと手ごたえがあった。柴谷は、豊満でぶよぶよな乳房より、ずっと絵里子のそれの方が好きだった。そのことを絵里子に言ってやれば、彼女はどんなに喜ぶことだろう。日頃、パット入りのブラジャーをはめているところを見ると、胸にコンプレックスを持っているはずだからである。しかし、柴谷は何も言わなかった。
 重なり合い、お互いが恍惚状態に達すると、「愛しているよ」と、言ってあげるのはお決まりのようなものなのに、柴谷はそのことばも意識的に言わなかった。
 絵里子は、その恍惚の中で「好きだよー、好きだよー」と、しきりに叫び続ける。柴谷は絶対何も言わない。すると、
 「嘘でもいいから、私のこと好きだと言って!お願い!」と、必死に頼んでくる。
 「俺、いつも本気だから、嘘は言えないんだ」と答えた。
 すると、絵里子は、急に黙ってしまった。
 ―じゃあ、本気で好きだと言って―とは言わなかった。
そう言われたら、―俺、好きではないから―と、言わざるをえなかっただろう。
 もしかすると、彼女はその言葉が恐かったのかもしれない。47へ

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2008年01月20日

小説・優しい背中

45
 12月27日、二次会の席。かなり広いキャバレーのワンボックス、柴谷と絵里子は斜向かいの席に座っていた。
 柴谷は、もともと酒は強くない。しかもすぐに顔が赤くなる。宴会の席では、社員をねぎらって率先してお酌して回った。その度に返杯される。たいていは、飲む真似で済ませたが、それでもいつの間にか、大分飲まされた。
 酔ってないつもりでも、二次会では相当メーターが上がっていた。
 絵里子が酔っているのか、それとも全く飲んでいないのか、柴谷には全く分からなかった。もし飲んでいるとすれば、車は運転出来ないだろう。
 この後、手紙に書いてあった喫茶店へ本当に行くつもりなのか。
 気になった柴谷は、さり気なく絵里子の表情を視線で追った。絵里子は、くったくのない笑顔で、隣に座っている若い男性社員と戯れている。
 それを見ると、彼女も酔っていると思った。きっと手紙のことは忘れているだろう。
 やれやれそんなものか、という気持ちもいくらかあったが、正直なところは、『助かった、これからデートなんてまっぴらだ』と、いう気持ちの方が強かった。
 それからは、絵里子のことは一切気にせず、自分のペースでその場を楽しむことが出来た。
 11時になろうという時、二次会はお開きになった。
 出口へいっせいに皆が押し寄せた。いつの間に来たのか、柴谷の横に絵里子が擦り寄っていた。ああ、と思う間もなく、彼女は
「先に行って待っていますから、必ず来て下さい」と、耳打ちした。
 出口は混んでいたし、薄暗かった。他に気付くものはいなかったはずだ。
 それにしても、絵里子の動作は機敏で要領がよかった。
 なぜなら、一方的にそれだけ言うと、柴谷にイエス、ノーを言わせる間を与えず、風のようにその場からいなくなっていたから。46へ

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2008年01月17日

小説・優しい背中

44
 手紙には、「忘年会の後会って下さい。二次会が終ってからでいいです。喫茶店スワンで待っています。時間は、二次会終了後でどうでしょうか」と、書いてあった。
 絵里子は、手紙を書くことが好きな女である。
 2回目のデートの時、彼女は
 「話したいことがいっぱいあったのに、いざこうして向き合うと、緊張して、何も思い出せないの」と、言った。
 深く考えたわけではなかった。とっさに、
 「そんな時は、紙に書いてくればいいんだよ」と言ってしまった。
 それからだった。絵里子が、ことあるごとに柴谷に手紙を渡すようになったのは。
 柴谷は、忘備メモをつけたらいいと言っただけで、ラブレターみたいなものは、みじんも念頭にはなかった。
 本人を前にしてラブレターを読まされることは変な具合だった。最後に必ず「読み終わったら破って捨てて下さい」と書き添えてある。そのままその手紙は、彼女に返した。それを彼女は勢いよく破いて捨てた。
 会社でも、隙を見て、何度か手紙を渡された。絵里子もやはり普通の女なのか。大胆なことをここまでどうどうとされると、やはり引いてしまう。
 中に書いてあることは大したことではない。自分がどんなに柴谷を愛しているか、毎日どんなに幸せか、とかいうようなことだった。
 しかし、それを読むたびに柴谷は狼狽した。
 ただ、絵里子は文章も字もとても上手だった。柴谷は、そのラブレターを、まるで小説を読むように堪能したに過ぎなかった。
 当然、返事を書くどころか、感想を言ったこともない。ただ、迷惑とだけはどうしても言えなかった。45へ

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2008年01月15日

小説・優しい背中

43
 柴谷は子供が出来てから、クリスマスは、仕事がない限り必ず家族で過ごす。
 家族は柴谷にとってかけがえのない存在なのだ。家庭を第1に考えているスタンスは、外に好きな女がいてもゆるぎないことだった。
 ある日仕事上で柴谷は、期せずして絵里子と2人だけになったことがあった。支社長室だった。
 彼女から「支社長、クリスマスの夜はどうされるんですか?」と、聞かれた。
 普通に「家族と過ごすよ」と答えた。
 「そうでしょうね」と絵里子も、何ごともないように言った。
 会社の掲示板には、忘年会が27日だということを、12月早々から張り出されていた。
 クリスマスの過ごし方を聞かれて2〜3日経っていただろうか。
 柴谷は、お手洗いから出てきたところを、背後から急に「支社長」と、呼び止められた。絵里子だった。
 柴谷は驚いたが、「ああー君か」とだけ言った。
 絵里子は、
 「これ、後で読んで下さい」
 と言って、いきなり柴谷の背広のポケットになにやら突っ込んだ。
 柴谷が「何?…」と聞き返す間もなく、絵里子は足早にそこを立ち去った。
 女学生みたいなことをするやつだ、と思った。
 それは1枚の手紙を折畳んで結んだものだった。内心、複雑な気持ちだった。
 というのは、その時柴谷は、絵里子の処遇に対して重大な決断をしていたからだ。
 もう1人社員を減らすとすれば、どうしても総務企画からしかなかったのである。
 となれば、年齢、家族事情、仕事の内容、特に待遇の面からは、1番厚遇されている絵里子に、どうしても目を向けざるをえないのである。
 それに、好都合なことに、博多港倉庫の管理部長である広木から、広木は前支社長である、彼は絵里子を高く買っていたというプレミアムつきでもある、その彼が、ここにきて英語の出来る正社員を博多港倉庫に配置してくれるように、柴谷に依頼してきたのだ。
 絵里子が最適人である。
 柴谷はそう確信した。
 ただそうなれば、勤務、給料体系が変わってしまう。当然彼女の給料は減額されるだろう。
 倉庫は、現在、正社員は管理部長1人で、後は全てパートやアルバイトで形成されている職場なのだ。
 今まで恵理子が歩んできた表舞台ではなくなる。
 はたして、絵里子は受け入れてくれるのだろうか。
 柴谷にとっても辛い決断なのに、当の絵里子には、相当堪えることは間違いないことだった。44へ

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2008年01月12日

小説・優しい背中

42
 柴谷は、この12月に、東京本社で開かれた支社長会議に出席した。
 その会議で、4月に打ち出された社員1割削減を、2割削減に増やすように指示される。
 柴谷には、頭の痛い仕事だった。
 4月就任時には、15人の社員1割、即ち1〜2人なら何とかなるだろうと思っていた。それが2割となると、はっきり3人減らさなければならないのだ。
 4月以来ずっと、全社員の勤務態度、成績を見てきた。 社員、1人1人を見ると、けっこう皆頑張っている。
 ただ1人だけ気になっている男がいた。販売部岡田征二54歳だった。精悍な顔と、ものおじしない気骨の持ち主である。なかなかいい男なのだが、気にかかるのは会社をよく休むことだった。彼の手腕で売上が伸びる場合もある。しかし、いざという時、欠勤していることで、仕事に支障をきたしていた。これは組織にとっては、何よりあってはならないことだった。
 ところが、その岡田自身が、12月になってすぐ、
「来年の4月に自分で事業を起こしたいと準備している。3月には退社したいが、それまでちょいちょい会社を休むことがあるだろう。それが許されないなら、1月に退社してもかまわない」と、柴谷に申し出てきたのである。
 願ってもないことだった。ただ、柴谷はなるだけ岡田の希望を叶えてやりたかった。
 「そうですか。3月までは我が社のために力を貸して下さい。休暇は有給がある限り取ってもかまいません」と答えた。
 「有難うございます。最後までちゃんと頑張ります」と、嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
 今1人、柴谷にはもくろみがあった。
 経理部の若手、南田陽一である。
 彼は一橋大学出身、将来の幹部候補生である。本社に引き上げてもらうべく段取りを取っていた。
 その2人で人員削減の仕事は済むと考えていたのである。
 それが、もう1人何とかしなければならなかった。43へ

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2008年01月10日

小説・優しい背中

41
 高速を走行すると、必然的に80キロ以上のスピードが出る。別に外の景色がいいわけではない。ただコンクリートの壁が続くだけなのだ。10分もしないうちに大宰府インターに近づいていた。
 「大宰府でUターンしよう」
 柴谷は高速を降りると
 「このまま、高速に乗って帰る?それともちょっと遊んで帰る?」と、言った。
 それは、つい思いつきで口走ったことだった。
 絵里子はそれを望んでいるのではないか。直感的にそう思ったのだ。
 新車のせいで、気分が高揚しているのか思わぬサービス精神が湧きあがったとしか言いようがなかった。
 「遊んでいいんですか?」
 「時間いい?」
 「ええー、夕方までに帰ればいいですから」
 「よし、なら行こう」
 「どこへ?」
 「うん…」
 柴谷は迷わず脇道にそれて、どんどん山道の方へと車を走らせた。
 しばらく行くとそこは一目見てそれと分かる、きらびやかなラブホテルがあった。
 絵里子は驚いている様子だったが、すぐに納得したのか、
 「昼間からですか?」と言った。
 「たまにはいいじゃないか」と、柴谷は澄ました顔で答えた。42へ

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2008年01月07日

小説・優しい背中

40
 あっという間に年末になっていた。
 絵里子の自分に対する想いは消えることなく、ますます深まりつつあると、柴谷は感じていた。社員はおそらく気付いていないだろう。その点、安心だった。絵里子は社内では、馴れ馴れしくすることも、仕事以外の話をすることも決してしなかったからである。
 絵里子とは結局、今までに3回関係を持った。
 3回目はほんの偶然だった。
 晩秋の土曜の午後、ハッピースポーツクラブの帰りだった。
 柴谷は新車に買い替えたばっかりだった。ダークブルーの高級車カムリはやはり自慢である。やたら乗り心地を確かめたい時期でもあった。
 「あら、支社長、こんにちは。今日はジムの日だったんですか?」
 「君も…」
 「ええ、でも支社長は確か火曜日では?」
 「うん、そうだけど、今日は特別だよ。…新車買ったんだ。だから試乗も兼ねて…」
 「えっ、ホントですか。いいなあ」
 「見る?」
 「いいんですか、ぜひ見たいです」
 柴谷は、その時は単に絵里子に自慢の新車を見せたかっただけだった。絵里子にだけでなく誰彼となく見せたかった。たまたま、そこにいたのが絵里子だったという偶然だった。
 駐車場へ行き、そのカムリを見ると、絵里子は大袈裟なほどはしゃいでみせた。
 「わぁーステキな車ですね。ちょっと助手席へ乗ってみていいですか?」
 「いいよ、何ならちょっとドライブしてみる?」
 「えっ、いいんですかぁー、嬉しい!」と、絵里子は子供のように喜んだ。
 最初はその辺を一回りしようと思っていた。
 絵里子を乗せて快適に運転をしているうちに、もともとあった高速を走らせたいという気持ちが、急に頭をもたげてきたのである。えーいとばかりそのまま高速に乗っていた。41へ

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2008年01月04日

小説・優しい背中

39
 人の気配で頭を上げると、一目ではっと息を呑むような、いわゆる美形の女性が絵里子のデスクの方へ近づいてきた。年の頃は30代後半だろうか。
 「あの、私、笹本と申します。本社から参りました。支社長いらっしゃいますか?」
 そういえば、本社からのメールに確かに笹本真澄という名前が書いてあった。てっきり男性だと思い込んでいたのだ。
 「はあー」
 絵里子は動揺していた。その動揺を悟られないように、ひときわ冷静を装った。
 「おります。どうぞこちらへ」
 支社長室へテキパキとした態度で案内した。
 「やあー、いらっしゃい。元気そうだねー」
 柴谷は、とても親しげに笹本に応対した。笹本も
 「お久しぶりです。柴谷さんもお元気そうで」と、妙に打ち解けた態度をとっている。
 2人はいったいどんな関係だろう。柴谷が女子社員とこれほど親しげに喋っているのを見たことがなかった。しかも相手はこんなに美人。
 アルバイトの女の子にコーヒーを出すように指示すると、絵里子は自分のデスクに戻った。
 その後、書類に目を通していても、気持ちは全く空ろだった。
 隣で一部始終を見ていたのだろうか。平林啓太が絵里子の心を見透かしたように、
「大城さん、心配でしょう。あんなに綺麗な人が支社長と2人きりで部屋にいるのは」と言った。
「そうね、少しはね、だってあんなに美人なんだもの。支社長も嬉しいよね」
 と、その場は軽く受け流したものの、平林の鋭い指摘に心中は多いにドギマギしていたのである。
 平林は、日頃、絵里子の隣の席にいて、絵里子が支社長に恋慕の思いを持っていることを、少なからず感じ取っていたのかもしれない。それもまずいことだった。
 しかし、今はそれどころではなかった。
 絵里子はさっきから瞼の下がピクピク動くのが気になっていた。
 これがゼラシーというものなのか。40へ

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2007年12月29日

小説・優しい背中

38
 柴谷が福岡支社長に就任して、早半年が過ぎた。
 絵里子にとって、もう長いこと経っているようにも、あっという間だったようにも感じられる。
 海辺のホテルで会って以来、2人が外で会うことはなかった。会社では毎日顔を合わせ、会話もするのだが、絵里子はもう長いこと柴谷に会っていないような錯覚に陥ることがある。ビルのエレベーターの中で、偶然、2人きりの場面に出くわしたりすると、懐かしさのあまり「お久ぶりですね」と、本気で言ったりするのだった。
 そんな時、柴谷はいつも通り穏やかではあるが、妙によそよそしいのだ。
 柴谷は、仕事場では、誰に対しても穏やかだった。ただ、どこかに絶えず緊張感が漂っている。そんな親しさの中にも隔たりを感じる柴谷に対して、社員は皆いい意味で、ピリピリしているのだ。
 それが、仕事上の数字に表れていた。販売高が徐々に上がっているのだ。社内の雰囲気もすこぶるよかった。
 絵里子は皆と同じ器の中にいられるだけで幸せだった。
 柴谷が絵里子のことを、特別に目にかけていることは決してなかった。
 むしろ前支社長の方が絵里子に対しては、ずっと好意的に評価してくれた。海外出張にも同行したほどだった。
 柴谷は、恵理子より若手の社員をドンドン活用しているので、同じ総務企画の平林啓太はみるみる頭角を現していた。
 それでも絵里子は、柴谷に対しては、常に畏敬の念を抱いていた。
 柴谷が社員に対して何を要求しているのか、いつも考え、資料集めや調査も進んでやっている。柴谷の指示には、いつ何時でも的確に対応出来ている自信があった。
 あからさまに評価はしてくれないが、柴谷は十分満足しているものと思っている。
 いつかはまた海外出張のお供も出来るようになりたいと、ただひたすら、絵里子は頑張っているのである。
 そんなある日、東京本社から、社員を1名福岡に出張させるというメールが入った。
 社所有の博多港倉庫の監査及び調査を兼ねて、支社に立ち寄るというものだった。39へ

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2007年12月27日

小説・優しい背中

37
 柴谷は既に服を着て、放心状態という感じでベッドの横に腰掛けていた。柴谷はタバコを健康のために止めている。今むしょうにタバコが吸いたかった。
 絵里子は、それを察していた。
 コーヒーメーカーには、いつでも飲むことが出来るように、挽くだけにした豆が用意されている。
 絵里子は2人分の熱いコーヒーを入れた。
 柴谷に「どうぞ」と言ってカップを渡すと、当然のようにぴったりと寄り添って座った。
 コーヒーの香り、立ち上る湯気、傍らに愛を確かめ合った柴谷の身体の温もり、絵里子は身も心も充実していた。
 飲み終わったカップを応接台に載せると、絵里子は再び柴谷に寄り添った。
 そして、柴谷の大きな左手を我が物のように、自分の両手で包み込んだ。
 この風景、小説の画面で見た覚えがあった。
 その『雪国』の中で駒子がしたことを、絵里子は咄嗟に真似ていた。大きな柴谷の手の指1本1本を自分の口の中に、次々にくわえていった。柴谷は何も言わずに絵里子の成すがままにさせてくれた。
 絵里子は、これは1夜のアバンチュールなのだと思った。
 「ねー、今度はいつ?」と思い切り甘えて聞いた。
 「うん?わからない。もう会わないかも」と、柴谷は何ごともないように言った。
 そして、
 「さあー、口紅をひき直して。そろそろ帰ろう」と言った。38へ

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2007年12月25日

小説・優しい背中

36
 車は海浜道路を走っていた。
 所々に人家や商店、飲食店もあるが、夜の海岸線はさすがに車の往来は少なかった。レストランを出てからは、柴谷がハンドルを握っていた。
 「20分位かかるけどいいだろう?」と言った。
 「ハイ、もちろん」絵里子は応えた。
 それっきり会話は途絶えた。絵里子は柴谷にいっときでも不愉快な思いをさせたくなかった。頭の中で気の利いた話題をあれこれ吟味してみるものの、あせればあせるほど話題が思いつかない。幸運にもカーラジオが適当な間で音楽を流していた。
 ホテルは、道路端にあった。
 西側が玄界灘、東側の山の斜面に沿って、コテージ風の1戸建てが20軒ほど段々に並んでいた。
 夕方ならおそらく綺麗なサンセットが見られるのだろう。そんな地形に位置したホテルだった。
 ラブホテルといっても、1歩中に入ると、普通の別荘のような感覚である。キッチンのテーブルの上には花も飾ってあり、家庭的な雰囲気さえ漂っている。つい、エプロンをさがしてしまいそうな錯覚に陥る絵里子だった。
 ここまで来る車の中では、どこかで、やはり抑えているに違いない罪の意識が、ふっと頭をもたげてきて、ずるずると気分が沈んでいった。そのメランコリーが、ここに入ったとたん嘘のように晴れていた。
 むしろ、陽気になりすぎて、甘いしっとりしたムードはどこかへ飛んでいた。
 そんな絵里子の気持ちを引き戻すように、
 「こっちへおいで」と柴谷がベッドから呼んだ。37へ

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2007年12月23日

小説・優しい背中

35
 博多湾に面した海辺の中華レストランに、柴谷と絵里子はいた。
 「何が食べたい?」と聞かれ、絵里子は即座に中華と応えた。
 それなら、この海辺のレストランがいいと、柴谷が案内してくれたお店だった。
 ウイークデーの夜8時過ぎなのに、けっこう混んでいるところをみると、人気のお店なのだろう。
 夜の博多港が見渡せた。
 お腹はけっこう空いていたものの、このロマンティックな景色を見たとたん、胸が一杯になり食欲はぱったり無くなっていた。
 しかも、メニューの料理は、美味しそうだがどれもボリュームがあり、今にもニンニクの匂いがしそうだった。
 「美味しそうだけど、きっと匂いますよね」と、絵里子は困惑した面持ちで言った。
 「いいよいいよ、2人とも食べれば匂いなんて気にならないから。好きなもの食べたら」と、柴谷は言った。
 絵里子は、柴谷のその思いがけない気さくなことばに、すーっと心が和むのを感じた。
 柴谷のことがすごく近しい人に感じた。それはとても好感の持てるものだった。
 「じゃあ、しゅうまいとスープ、それにチャーハン、1皿ずつ取って、一緒に頂きます?」と、調子に乗って言った。
 「それでいいよ」
 柴谷は、何の異論も言わず、見守るような眼差しで同意した。
 考えてみれば、絵里子は、柴谷がどんな食べ物が好きで、日頃どんなものを食べているのか何もしらないのだ。
 2人して、レストランで食事をしていること事態、絵里子にとって、夢見心地だったのである。
 ホテルに行くことは、ある意味、以外と簡単に出来ることかもしれない。しかし、日常の生活に入り込むことは、そうとう心が通じ合わないと出来ることではないのだ。
 それは、夜の職業女性が、職場では客とどんなに親しくしても、昼間プライベートでは全く別人であるのに通じている。
 絵里子はせっかくの中華料理も、柴谷が自分の目の前にいることに胸が押し潰されて、殆んど喉に通らなかったのである。36へ

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2007年12月21日

小説・優しい背中

34
 「ここに座って」
 柴谷は座ったまま椅子を少し後に引いて、自分の膝の上を手で2回たたいた。至極真面目な顔だった。
 「えっ、何をおっしゃってるんですか?」
 絵里子にしては、確かめずにはいられなかった。空想の世界でも想定していなかったからだ。
 「うん?だっこしてあげる」
 やはり真面目な顔だった。
 次に絵里子が何か言おうものなら、柴谷はもう2度とは強要しなかっただろう。
 柴谷の既に躊躇したような顔の変化を、絵里子は見て取っていた。
 柴谷の好意を無にしたくなかったし、恥をかかせたくなかった。
 「重くてもしりませんよ」
 と言って右腕を柴谷の首に回してお姫様座りをした。
 柴谷は絵里子を抱くと、すぐさま儀式のように唇に軽くキスをし、右手でブラウスの上から胸を軽く触った。柴谷の大きな手では、絵里子の胸はあまりにも頼りなかった。絵里子は男の手を感じながら、申訳なさで身の細る思いだった。
 柴谷は、再び軽く唇にキスをすると、
 「ここまで…ね」と言った。
 絵里子は、何かちょっとだけものたりない、と思わなかったわけではない。
 が、冷静になると、ここは支社長室。柴谷には抑制力がちゃんと備わっていたのだった。35へ

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2007年12月19日

小説・優しい背中

33
 誰もいないオフィスに照明だけがあかあかとついていた。絵里子は、あっ、と思った。柴谷が残っていたこともあり、あたふたと帰ったこともあり、照明を切ることを忘れていたのだ。ただ、支社長室では柴谷が仕事をしていた。これでよかったのかもしれない。そんな事務的なことが、この期に及んであれこれ絵里子の頭の中をよぎった。
 社員がいない室内は以外と狭く感じられる。ハイヒールのコツコツという音が、やけに響いた。
 はやる気持ちを抑えて、絵里子は支社長室の扉をノックした。
 「どうぞ」
 柴谷は、平然としていた。
 「来ちゃいました。すみません、お疲れのところ」
 絵里子は言ったあと、はっとした。あまりにもストレート過ぎる言い方のように思えたのだ。絵里子はすっかり気が動転した。
 しかし、柴谷はいつものように冷静だった。絵里子が来たのもごく当たり前のように受け止めているようだった。
 「うん、いいよ」
 支社長専用の大きなデスクの向こうで、大きな椅子に深々と座ったまま、柴谷はじっと絵里子を見つめた。居たたまれないほど長い時間に感じたが、それはほんの数秒だったのかもしれない。
 「ちょっと、こっちへ来て」
 柴谷は事務的に言った。
 「はい、何か…」
 絵里子は、業務命令を受けるのだと思った。一瞬、何もこんな時に、と思った。
 しかし、仕事の時、いつもそうするように、反射的にデスクの前に立った。
 すると、柴谷は自分の横に来るように手をさしのべた。絵里子は事態がまだよく飲み込めていなかった。34へ

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2007年12月16日

小説・優しい背中

32
 手足が無意識に運転はしていたが、頭の中は上の空状態だった。はっとして我に戻る。集中、集中と自分に言い聞かせる。
 こんな所で事故を起したらどうなるのだろう。柴谷に会うことが出来なくなる。日頃は何でもない運転がむしょうに心もとなく感じた。こちこちに緊張しているのが分かった。ハンドルをあまりにもしっかり握り過ぎて、じっとりと手が汗ばんでいた。
 行き交う車は殆んど家路へと向かっているのだろう。絵里子はその家路とは反対の方向へ、押し寄せる車の波に立ち向かうように車を走らせた。柴谷を求めていた。もうすぐ彼の胸に抱かれるのだ。それまで何ごとも起こらないよう、それだけを祈っていた。
 しかしそんなことはもちろん思過ごしで、実際は何事もなく大成ビルに到着した。5階建て大成ビルの2階に絵里子の会社ルソンがある。
 駐車場に車を止めた絵里子は、電話をすることなくオフィスへと向かった。電話する時間がもどかしかったのだ。
 大成ビルにはクリニック、化粧品会社、証券会社等が入っている。午後8時になろうとしている今の時刻には、殆んどの会社は終業していたが、2〜3の会社にまだ残っている人がいるのか、エレベーターはまだ始動している。しかし絵里子は当然階段を使った。2階ということもあるが、エレベーターはどこか心配だった。突然動かなくなったら、ここまできて柴谷に会うことが出来なくなる。そんなくだらない不安だった。とにかく、柴谷に会えるまでは、何もかもスムーズに行かせたかったのである。33へ

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2007年12月14日

小説・優しい背中

31
 絵里子が自宅に戻った時、泰三も里美もまだ帰っていなかった。
 絵里子はとりあえずほっとした。
 帰宅途中に、スーパーで買ってきた食材を調理台へ置くのももどかしく、絵里子はサロンエプロンを頭から被った。当然服を着替える余裕はなかった。
 めったに作らないオムライスを手早く作った。それにチキンスープに溶き卵とネギを散らした。後は、キュウリ、レタス、トマトのサラダを添えた。何とか夕食の形は整った。
 夫も娘もまだ帰っていないのに、自分がなぜこんなに気ぜわしく食事の支度をしているのか、なぜこんなに気があせるのか。
 絵里子は気がついていた。最初から自分の気持ちが柴谷に飛んでいたことに。
 柴谷がもしまだオフィスに残っていたら、里美に食事をさせた後、もう一度柴谷に会いに行こうと決めていたのかもしれない。
 普通なら里美がこんなに遅く帰宅すると心配でたまらないのに、今夜はそれが、都合がよかった。
 胸のときめきを抑えながら、支社長室の固定電話番号を押した。
 出なかったらそれまで、出たら出かける。
 「もしもし…」
 「はい、柴谷です」
 紛れもない彼の声だった。絵里子はもう無我夢中だった。
 「大城です。お仕事まだしていらっしゃるんですね。私今自宅から電話しているんです。今からそちらに行きます。会って下さい」そこまで一気に言った。
 「…今から? …そうね、…いいよ。じゃあ会社に着いたら階下から電話して。それまでここで仕事しているから」
 「分かりました。すぐ行きます」
 それからいろいろなことをしたが、それは夢遊病者のように、地に足がつかない状態だった。
 まず、里美にメールを打った。友人の所で勉強して8時頃帰ると里美からもメールが入っていた。
 泰三へは里美に伝言を頼んだ。
 そして、シャワーもちゃんと浴びて下着も取り替えた、丁寧に化粧もした。さすがに鏡の中の自分を見るのが後ろめたかった。でも、柴谷にこれから会える嬉しさが、すぐそんな思いを打ち消した。32へ

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2007年12月12日

小説・優しい背中

30
 絵里子は、コーヒーを入れて柴谷の机に置くと
 「じゃあ、私はこれで帰ります。お疲れ様です」と言った。
 「どうもありがとう」と、柴谷は言った。
 その時交わした短い会話中に、一瞬2人の目が合った。絵里子はその時、柴谷の目に迷いらしきものを感じ取った。
 ―もしかしたら、彼もまた、自分ともう一度デートしたい思いを持っているのではないか―
 そう思った。
 しかし、絵里子はその場は何も言わずにそそくさと家路についた。
 今日はどうしても帰らなければならなかった。
 絵里子はやはり家庭を一番大事に思っている。夫の泰三には、突然その日帰りが遅くなることを、さして臆することなく言える。自分自身がたいてい予告なしに遅く帰る泰三は、妻の行動にも、あまり関心を持ってない。たとえ、夕食の支度がしてなくても、文句を言うことはなかった。
 ただ、娘の里美には母親として常にちゃんとしていたかった。しかも、仕事以外のことで、母親の務めを放棄することは絵里子の頭にはなかった。
 もし、帰宅が遅くなるような時は、事前に、それなりの処置をしておく必要があった。当然今日は何もしていない。
 一刻も早く帰り、いつものように夕食の支度をして、お腹を空かして帰ってくる里美に食べさせなければならない。
 とりあえず、早く帰る必要があった。既にいつもより遅い時間だった。31へ

(上記は〈小説・優しい背中〉で連載中)

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2007年12月10日

小説・優しい背中

29
 そのチャンスは、意外と早く訪れた。
 その日、柴谷は会議出席後、そのまま宴席、会社には戻らないことになっていた。
 支社長が留守ということもあるのか、終業時になるやいなや、社員は全員さっさと帰宅してしまった。
 絵里子も定時に仕事を終えた。
 オフィスの戸締り、消灯をするのは、いつの頃からか概ね絵里子がするようになっていた。
 ほんの10分程前までは騒然としていた同じ室内と思えないほど、静まり返っている部屋に、絵里子は1人しばらく居坐っていた。
 帰ってしまうにはなぜか、後ろ髪が引かれ思いがしたのである。
 もしかするとこの間のように、ひょっこり柴谷が現れそうな気がしたのだ。
 5分待ってみようと思った。
10分経った。
―そんなこと何回もあるはずないか―
 絵里子がきっぱりと帰ろうとしたその時、前のドアが開いた。
「あれっ、皆、もう帰ったの?」
 絵里子の勘は当たったのだ。柴谷が帰ってきたのだ。絵里子は歓喜に胸が震えた。
 その気持ちが全身に現れているのが、自分でも恥ずかしかった。
 「お帰りなさい。宴席には行かれなかったのですか?」
 「ああー、そんなに重要なものでもなかったから、止めにしたんだ。それにしても皆早いね」
 「そうですね、支社長もいらっしゃらなかったので、皆少し気が緩んだのかもしれませんね」
 「そんなものなの。まあ別にいいけど。君も帰るとこなのだろう?帰っていいよ」
 「ええ、支社長は今からお仕事ですか?」
 「本社にメールを送らなくてはいけないから、ちょっと仕事する」
 「じゃあ私、コーヒーだけ入れて帰ります」
 「ありがとう」
 絵里子の頭の中は、パニックになっていた。
 自分の勘が当たった喜び。しかし喜びもつかの間、腰を落ち着けて仕事をしそうな気配の柴谷に、絵里子からデートの誘いなど出来るはずはなかった。30へ

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2007年12月07日

小説・優しい背中

28
 絵里子は柴谷と1回だけ結ばれれば、それでいいと思っていた。
 しかし、あの夜の出来事は全てが夢のようで、ちっとも現実味がないのだ。柴谷は絵里子にとって相変わらず遠い存在だった。
 彼のプライベートは、何1つ知らない。携帯の番号も。知る必要もないが、正確には聞けるような間柄にはほど遠いだけだった。
 それなのに、柴谷の身体は隅々まで知っているような気がした。身体に付いている黒子の位置も、こと細かく覚えていた。
 人間の身体には、意外と黒子が多くついていることも初めて知った。
 全裸で身体を重ね合わせた時、お互いの腰の辺りに付いていた黒子が、ぴったり重なり合ったことに、絵里子は偶然気がついた。その時のちょっとした喜び。
 「あら、同じ所に黒子が付いていますね」と、思わず言った時、柴谷は何も返事をしなかった。照れていると言えなくはないが、それほど感動もしていなかったのかもしれない。
 絵里子は無視されたことに、ちょっと傷ついた。少しくらい、感動して欲しかったのだ。
 柴谷は優しいことばも愛情を表すことばも決して口にしなかった。それは絵里子には故意にさえみえた。男の狡さにしかみえなかった。しかしその分、身体や態度では、充分優しかったし、愛も感じることが出来た。
 そのため、絵里子は多いに迷うのだ。
 もしかしたら、もう1度会ってもらえるのでは。
 もう1度ドッキングしたかった。29へ

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2007年12月05日

小説・優しい背中

27
 絵里子の1日は、里美に持たせるお弁当作りから始まる。そのため、ウイークデーは毎朝6時に起きることを余儀なくされる。
 今までの絵里子は、お弁当作りから解放される土曜、日曜がどんなに待ち遠しかったことだろう。土曜日曜は絵里子の至福の時だった。
泰三は、ゴルフに出かけることが多いし、里美も部屋にこもっていたり、友人と出かけたりする。自然と自分だけの時間を持つことができたのである。
 といっても、土曜日はプール、日曜日は溜まっている家事を丁寧にしたり、ゆっくりテレビを見たりすることぐらいだったが。ただ、それが何より楽しかった。
 もちろん、時々は、家族3人で外食することもあった。
 週末の楽しみがあるから、ウイークデーが、頑張れていたのだ。
 なのに、最近、やけに土曜日がくるのを早く感じるようになっていた。
 それはきっと、2日間も、柴谷に会えないと思う寂しさだった。
 絵里子は、柴谷といっしょのオフィスにいるだけで充実していた。毎日の仕事にも張りがあった。成績もどんどん上がっていた。不思議と身体の調子もよかった。
 毎朝鏡に向かう時、いつの間にか、にっこり笑って自分を確かめている。皆が言うほど自分が綺麗になったとは思えない。以前と変わったとするなら、きっとアドレナリンが活発に分泌しているのかもしれない。
 柴谷だけには、いつも綺麗に見られたいと思っている。そのためいつも緊張しているからだ。
 その点、以前とは確かに違っている。とても窮屈なのに心地よいのだ。
 柴谷と会えない土曜日はきてほしくないのに、一方ではなぜかほっとしていた。自分では理解できない不思議な感情だった。28へ

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